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2012年2月

2012年2月26日 (日)

Nik Kershaw 『The Works』を聴く

先週買った1枚105円のジャンクCDの1枚。
現在廃盤。
アマゾンでは中古でも3500円の値が付いている。
帯なしだけど、盤もケースも歌詞カードもピカピカの掘り出し物。国内盤。

ザ・ワークス

地味になって売れなくなった後のニック・カーショウ、89年の作。
LA録音、ドラムはヴィニー・カリウタ。ラストの1曲はジェフ・ポーカロ!

もちろんポップ・ソングであるからして、派手に叩きまくってるわけではないけれども、決して無駄遣いでもない。
結果的にはこのタイトなリズムがアルバム全体をワンランク上の仕上がりにしている。
スネアのタイム感とヌケの良さが爽快。
随所でシンバルワークにもニンマリさせられる。

全体としては、後期のスクイーズを思い出すような、地味だけれども品のよい職人芸的ポップ。
好感の持てる佳作だ。

こういう拾い物があるからジャンク漁りはやめられません。

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2012年2月25日 (土)

『テクノマジック歌謡曲』を聴く

前に聴いた『イエローマジック歌謡曲』 の姉妹編、『テクノマジック歌謡曲』
こちらは、YMOが関わっていないテクノ歌謡のコンピレーション。

テクノマジック歌謡曲

見事に知らない曲がずらりと並んでいるのでちょっと躊躇したんだけど、disc 2 に堀ちえみの「Wa ショイ!」が収録されているのに気がついて、やはりこれは聴かねばなるまいということでレンタル。
クレジットを見ると85年だから、当時自分は高3。
堀ちえみには何の興味もなかったんだけども、白井良明の手によるこの曲をラジオで聴いて(確か坂本龍一のサウンドストリートではなかったかと思う)いたく気に入り、シングルを買い求めたのだった。
今も実家にはドーナツ盤が眠っているはず。
もう80年代も中盤だから、サンプラーなんかも使ってるし、テクノ歌謡と言うにはぎりぎりのような気もするけど。
同時期の森尾由美にもテクノ風の好きな曲があったんだけど、それは収録されていない。
なんて曲だったか思い出せない。

それにしても、やはり恐るべきは田中雄二の解説。
へえーの連続。
これ読むだけでも買う価値あるかも。

試しに disc 1 の1曲目、アパッチ「宇宙人ワナワナ」の解説を以下に引用してみましょう。

“矢澤泰代、阿部美和子、大田三知子で結成されたキャンディーズ・フォロアーの3人組で、「恋のブロックサイン」でデビュー。太田裕美で知られる白川隆三プロデュースで、矢野顕子、喜納昌吉作品で大胆なエレクトロニクス導入を手がけた矢野誠が編曲している。当時、矢野はジョルジオ・モロダーの翻案的ユニット、マコト・ハイランド・バンドをCBSソニーからデビューさせており、本作はいわばその副産物。神谷重徳をMC-8のプログラマーに迎えたサウンドは、同メンバーによる近田春夫「ああ、レディ・ハリケーン」同様のテクノポップ歌謡の真骨頂に。インベーダー・ゲームの効果音をシンセで再現し、ベースラインを組み込んだ編曲の仕上がりは見事。本物のテレビゲームの音を使う計画もあったと聞くYMO「コンピューター・ゲーム」や、細野が手掛けた同路線の3人組、スターボーよりも、突き抜け方ではこちらのほうに軍配があがる感じか。”

2枚組で37曲、全曲にこれくらいのボリュームの、日本のテクノの裏トリビア満載の解説がついてます。

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2012年2月20日 (月)

憂歌団『ベスト撰集』を聴く

憂歌団は、ライヴはもう何回観たかわからないくらい足繁く通ったけど、よく考えたらCDはたいして持っていない。
フォーライフ時代の作品は、その当時に見本盤をどさっとまとめてもらったのだけれども、正直言ってどれも出来はいまいちで、やっぱり憂歌団はライヴが命であって、スタジオ・アルバムは面白くないものだと決め込んだ。

それでCDもライヴ盤だけを買うようになって、スタジオ盤は基本的にスルーしてきたのだけれども、先日、いつものレンタル屋で何故か歌謡曲のコーナーにベスト盤が1枚だけ置いてあるのを発見。
なんとなく借りてみた。

ベスト撰集

これがとてもよい。
考えてみれば、自分がダメだと思ったのは全てフォーライフ時代のものだけれども、それ以前の、ショーボート時代の作品はスタジオテイクを聴いたことがなかった。
もう25年以上もファンやってんのに。
憂歌団がひたすらライヴで演奏し続けた代表曲の大半は、初期のショーボート時代の曲だ。
そしてそれら初期の曲は録音もシンプルで、スタジオテイクもとてもよいということが、今頃になってわかった。
「嫌んなった」も「オバチャン」も、とても愛着のわく良いテイク。
調べてみたらこのCDはもう廃盤になっているようで、惜しい。
「パチンコ」や「君といつまでも」や「イコマ」や「テーマ」の、たぶん聴いたことないと思われるライヴテイクも収録されている。

やばい。ショーボート時代のアルバム、コンプリートしたくなってきた。

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2012年2月19日 (日)

今日の収穫

またついうっかり立ち寄ってしまったジャンクCDコーナー。
今日の収穫はこちらの10枚。

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上の列、左から順に、

Set The Tone / Nate James
Filth and Dreams / Swing Out Sister
Keith Sweat / Keith Sweat
Runaway Horses / Belinda Carlisle
Love & Life / Mary J. Blige
Corinne Bailey Rae / Corinne Bailey Rae
The Works / Nik Kershaw
I'm Your Baby Tonight / Whitney Houston
Forgiven, Not Forgiven / The Corrs
The Cinderella Theory / George Clinton

全部105円、しめて1050円。

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2012年2月17日 (金)

Chick Corea & Gary Burton『The New Crystal Silence』を聴く

New Crystal Silence (Dig)

チック・コリアとゲイリー・バートンのデュオによるECMの名盤「Crystal Silence」から35年のアニバーサリーということで制作されたアルバム。
いや、「Crystal Silence」というのが名盤だというのはよく聞くんだけども、実は肝心のそっちの方はまだ聴いたことなくて、この New ~ の方がレンタル屋にあったので借りてみました。

2枚組で、1枚目はシドニー・オーケストラとの共演、2枚目がピアノとヴァイヴだけのデュオになっている。
だいたいオーケストラと共演されたりするとおれにはよくわからなくなるので、最初はdisc 2の方ばっかり聴いてたんだけども、何度か聴いてたら disc 1 のオーケストレーションも非常に美しく感じられてきた。

それにしてもヴァイヴの音が気持ちいいなあ。
元祖「Crystal Silence」の方も聴いてみます。

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2012年2月15日 (水)

Gidon Kremer『Tracing Astor』を聴く

よほど儲かるのか、最近、リサイクルショップや、中古のゲーム、CD、古本類を売る店がやたらと目につく。
そういうところへ行く機会があると、中古楽器や機材、オーディオ機器なんかをまず物色するんだけども、最終的にはジャンクCDのコーナーを漁っていることが多い。
最近は円高で輸入盤がえらく安いので、中古CDにはさほど魅力はないし、実際にほとんど買うこともなくなったんだけども、ジャンクCDは別だ。
なんせ1枚21円(1円は消費税か)とか、3枚百円とか、要するにタダ同然の価格設定なのであって、レンタルよりも安い。

もちろん、ジャンクとはよく言ったもので、その99%はまさにジャンクそのもの。タダでもいらないようなものばかりだ。
自分で言うのもナンだけれども、音楽の好みは結構幅広いつもりだし、どんなCDでも1回や2回ならそれなりの興味を持って聴ける気がするし、どんな音楽にだって、わずかな聴き所は見出せるようにも思う。
しかし、ジャンクコーナーのCDは、見事によくぞここまで聴く気がしないものばかり集めたものだと感心する。

が、しかし、そんな中にもお宝はあるものだ。

21円とかだとさすがにジャケットがなかったりケースが割れてたり、2枚組のうちの1枚だけだったりとかもするけれども、盤自体に問題があるものはまずなさそうだ。
かつては、多少興味があるものを見つけても、部屋でかさばることを考えると躊躇していたのだけれども、PCオーディオを導入してからは、そういうジャンクCDでも、ファイルにしてあとは格納なり処分なりしてしまえばいいのだから、余計気軽に買ってしまうようになった。

そういうジャンクCDコーナーで見つけた1枚。
ギドン・クレーメル『トレーシング・アストル~ピアソラへのオマージュ3』

Tracing Astor

クラシックもタンゴもほとんどよく知らないんだけども、このギドン・クレーメルというクラシックのバイオリニストがアストル・ピアソラの曲を演奏したというのをしばらく前にFMでたまたま聴いてグッときて、ネットでアルバムを調べ、アマゾンの「ほしい物リスト」に入れてあった。
そのアルバムは今回のこれではなかったんだけれども、(自分がチェックしてあったのはギドン・クレーメルのピアソラ作品集第1作で、これは第6作らしい)、なんせジャンク、なんせ105円だったもんだから、迷わず購入。
あまりにも汚いCDは家に持って帰ってから無水アルコールでケースを拭いたりすることもあるんだけども(ピカピカになる)、これは盤もケースも新品同様。しかも国内盤。
で、聴いてみたら実にいい内容で、FMで聴いたのよりもさらにもっとよかった。
録音も抜群で、ヘッドフォンで聴いているとギドン・クレーメルの息遣いまでばっちり伝わってくる。
めちゃくちゃ気持ちいい。

あとで気がついたんだけども、ノンサッチ・レーベルなんだな、これ。
もうノンサッチ大好き(笑)。
ノンサッチとECMは、100円コーナーで見つけたら何でも買うな、おれ。

いい買い物でした。

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2012年2月12日 (日)

Philip Glass『The Photogragher』を聴く

Photographer

もしかすると聴くアルバムのチョイスをミスしているのかもしれないという気もして、もう1枚、フィリップ・グラスを購入。
これもジャケに見覚えがあった同時期の作品。

で、聴いてみたら、1曲目の「ACT Ⅰ:A Gentleman's Honor」を、自分はよく知っていた。
知ってるっちゅうか、これは確かに昔よく聴いていた。
当時は中3くらいのはずなので、おそらくFMでエアチェックしたカセットテープか何かに入ってたんだろうか……。

ということは、その頃にやっぱりこの曲が気になって、そのせいでフィリップ・グラスを買うか買うまいか逡巡して、で結局買わずじまいだったんだけれども、そういうことがあったからずっと記憶に引っかかっていたということなのかもしれない。
うーむ。

で、結論としては、やはり『Glassworks』と同じで、いいんだけどもやや情緒過多の印象。
完成度は『Glassworks』だけど、聴きやすさはこっちかなあ。

現代音楽のことはまるで何も知らないので、フィリップ・グラスがその筋でどのような位置づけなのかとか、その仕事の音楽史的な意義とか、そういうことは何もわからないけども、やっぱりライヒの方が洗練されてて好きだ。

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2012年2月11日 (土)

Philip Glass『Glassworks』を聴く

Glassworks

フィリップ・グラスは、80年代の初め頃はどういうわけかロック雑誌にもよくレビューが出ていたので、名前だけはずっと知っていた。
当時のテクノ~ニューウェイブの中には、アヴァンギャルドやらインダストリアルやらアンビエントやらへの目配りがあったし、イーノやマイク・オールドフィールドみたいな例も既にあったわけだから、そういうのの一環としてロック畑にもリスナーがいたのだろうと思う。

自分の場合も、どうやって覚えたのかわからないけれど、ミニマリズムという言葉とそのだいたいの意味は当時から一応は理解していて、興味はあったんだけれども、まだまだ他にいくらでも聴きたいものがあるロック少年としては、さすがに自分で買おうという気にはならなかったし、周りに買っている友達もいなかったので、結局聴かずじまいだった。

後にずいぶんおっさんになってから、ライヒなんかでミニマル・ミュージックはよく聴くようになったのだけれども、フィリップ・グラスのことはとうに忘れていたところ、この度ふと思いだして買ってみた。

ジャケットにも見覚えがある。
中学生の頃だから、毎日雑誌を執拗に眺めていたんだろうと思う。

さて、聴いてみると……。

なるほど、予想していたのよりもずいぶんとわかりやすい。
道理でロック畑の人間にも全然イケたわけだ。
と言うか、いくぶんわかりやすすぎる気がする。
和声もわかりやすいし、ちょっとリリカルに過ぎる気味がある。
それと、生楽器によるミニマル・ミュージックというのはやはり素敵なのだけれども、管楽器を使った曲はちょっと個人的にはいただけない。うるさい。

そういうわけで、決して嫌いでもないのだけれど、これならやっぱライヒの方を聴くかなあ、と。

ただし、自分が買った“EXPANDED EDITION”には「In the Upper Room」という、本編と同じくらいのボリュームのボーナストラックが収録されていて、こちらがむしろ良い塩梅。
気に入ったトラックだけを選んで聴けば気持ちいい。

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2012年2月10日 (金)

山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む(3)

それで吉本隆明は、政治学や経済学から哲学に至るまで、それこそアダム・スミスやカント、ヘーゲルといった古典からスタートして、独学で徹底した勉強を始める。

それは何よりも、「生きていく」ために必要な作業だった。
時間的にも空間的にも、どのような歴史的経緯を経て、どのような位置に今の自分がなぜ存在するのか、なぜこのような目に合わなければならなかったのか、白紙からひとつひとつ見なおして、そこに納得のいく理由を見つけなければ、もはや自分が生きていく意味が見当たらないからだ。

実際、戦中派の人たちは、自分だけが生き残ったことを「恥」と考え、死んでいった戦友たちに「申し訳ない」と感じ、その後の人生を余禄のような、おまけのようなものに感じると語る人も多い。
それは、正直に考え詰めてしまえば、もう「生きていかれない」という結論にしかなりえないからだと思う。
そこから人生をもう一度立て直すには、吉本のようにゼロからもう一度世界を組立て直すしかないからだ。
そして、そんなことが誰にでもできるわけではないのはもちろんのことである。

吉本の思想が「強い」のは、そういう抜き差しならない状況から、強固な土台の上に形成された思想だからではないかと思う。

若いころの吉本はやたらと攻撃的で論争も多く、今でも当時のそうした姿勢に対しての批判は多い。
ここしばらくはすっかり好々爺のようだけれども、元気な頃の吉本は、確かに激しい。

しかしそれは、強い自負の裏返しであると思う。
吉本が、柄谷行人、浅田彰、蓮實重彦をまとめて「知の3馬鹿」と揶揄したことがあった。
お前らのやっていることは他者としての「大衆」を内包しないただの知的ゲームにすぎない、といったようなニュアンスだ。
吉本自身は、まさに「生きるための思想」として自身の思想をつくり上げてきた。
言い方は手が込んでいるが、簡単に言ってしまえば、お前らといっしょにしてくれるなというような気持ちがあったのではないかと思う。
戦争を知らない世代からすれば、それを言われてもなあ……ということかもしれない。
柄谷行人は吉本に対して、論争のために具体的戦死者を直接代弁するな、といった趣旨の批判をしたことがあるが、それも要するに、「おじさんの時代はそりゃ大変だったんだろうけど……」というのと同じようにも思える。

吉本は、本人が言うとおり、まさに「考え詰めてきた」人だと思う。
引きこもって、徹底的に、考えられるところまで考えた。
そこは認めなければならないと思う。
戦中派の宿命を一手に引受け、ゼロから全てを積み上げ直した。
しかもその作業を相当徹底的にやってきた。
だからこそ強靭だし、すくなくともそこに関しては信頼すべきだと思う。

80年代のポストモダンやニューアカデミズムを吉本が相手にしなかったのも、そう考えてみると当然のような気もする。
人間の基本的な部分は1000年前でも2000年前でもそう変わるものではない、と吉本はよく言う。
それは、結論としては凡庸だけれども、実際にその基本的な部分まで、本当に「いったん戻ってみた」のは吉本だけかもしれないとも思うからだ。

だから、おじいちゃんが多少無茶や無理を言うことがあっても、そこは大目に見といていいじゃないかと思うのだ。
おじいちゃんはそれだけの苦労をしてきた。

柄谷行人が、小熊英二が、宮台真司が、吉本の思想はもう古い、あのやり方はまずい、というようなことを言ったとしても、それはなんとなく、孫がおじいちゃんに向かって「時代が違うんだから……」と言うのとそれほど遠くない気がする。
そして、おじいちゃんしか見ていないもの、おじいちゃんにしか見えなかったものというのは、確実にあるはずなのだ。

いちばん最初に戻ると、そのおじいちゃんの苦労の断片を、この山田風太郎の日記でも読んで知っておくのは、とても意味のあることだと思った。

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2012年2月 6日 (月)

山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む(2)

吉本隆明の体験も、おそらく青年山田風太郎のそれに近い。

山田の2つ年下で、当然のごとく軍国青年でありながら、同様に理系の学生であったために徴兵を逃れた吉本隆明も、昭和20年8月15日の敗戦には納得しなかった。
終戦後すぐに日本にやってくるであろうアメリカの進駐軍が、“少しでもおかしなことをしやがったらただではおかない”と、刺し違えることも辞さない覚悟を決めて米軍のふるまいを注視する。

山田風太郎の日記にもあるが、当時の日本人は、戦争に負けて進駐軍がやってきたら、女は皆犯され、男はすべて強制労働させられると思い込んでいた。
山田青年も、そこまでではないにせよ、とにかく耐え難い恥辱を味わわされることになるに違いないと考えている。

しかし、現実はそうではなかった。
米進駐軍は、日本人が見たこともないような重機を持ち込んで見事な手際で焼け跡の復興を進め、子供にチョコレートを、大人にタバコをばらまいて行く。
アメリカ兵達の「余裕」ぶりに日本人は誰もが驚嘆し、改めてその国力の圧倒的な差を痛感する。
仮に日本がアメリカを占領していたとして、このような振る舞いは日本人には到底出来なかったはずだ、と。
結局アメリカは、ハナから日本など歯牙にもかけていなかった。
吉本隆明も、その様子を「見事だった」と振り返っている。

しかし、だからと言って、負けてよかった、そもそも無理だったのだ、結局これでひと安心ではないかとさっぱり割り切れるのは、戦前の暮らしを知っている「大人」だけであって、戦中派にとっては話はそう簡単ではない。
米軍の振る舞いの見事さは、逆に青年山田風太郎、青年吉本隆明らに重くのしかかる。
むしろ自身のアイデンティティの保全を図るためには、暴虐の限りを尽くしてくれたほうが楽なのだ。

自身が物心ついた頃から叩き込まれ、もはや「骨の髄まで」染み込んでいる信念、信条が、一夜の後に突然全否定され、米軍の見事な占領政策によって、自分は間違っていたのだという事実がもはや動かし難い事実として目の前で厳然と証明されていく。
8月15日までの自分は一体何だったのか。
死ぬ覚悟で守ろうとしてきたものは一体何だったのか。
実際そのために死んでいった数多の同胞は一体何のために死んだのか。
自分のこれまでの半生は一体何だったのか。
生き残って何をしろというのか……。
これほどまで唐突に、自身の世界そのものが瓦解していく体験をした世代はないのではないかと思う。

吉本は、その時の体験を振り返り、「このままでは生きていかれないと思った」という言い方をしている。
上陸してきた米兵たちが鬼畜のような振る舞いをしたのであれば、しばらくは日本人は地獄のような体験をしなければならないだろうが、自身の生き方としては何ら揺らぐことはない。
日本は決してこのままでは終わらない、10年後、20年後の再興をと望みをかけ、歯を食いしばって耐え忍ぶ覚悟など、山田や吉本ら戦中派にはとうの昔にできている。

物心ついた時から教え込まれ、寸分の疑いもなく信頼し、迷うことなくそれに命を賭す覚悟までできていた。
それがある日を境に、何の説明もないまま、間違いでした、ウソでした、と帳消しにされるどころか、悪者扱いすらされる。
それは吉本ら戦中派にとって、未知の異空間に放り出されたのと同じ、世界の終わりと同じ体験だったはずだ。
自身の生き方に誠実であった者ほど、「このままでは生きていかれない」という状態になるのが正常な反応だろうと思う。

それで軍国青年吉本はどういう行動に出たかというと。
引きこもりにならざるを得なくなった。

今までの自分の世界観が全て間違いであったと言うのなら、世界はどのようにできているのか。
アメリカ人は、ヨーロッパ人は、アジア人は、過去の人々は、実際のところ世界をどのように捉え、どのように解釈し、どのようなことを考えて生きてきたのか。
そうしたことをゼロから勉強しなおして、もう一度白紙の状態から自身の世界を組み立て直さなければ、もはや「生きていかれない」というほどまでに、日本の敗戦は、(と言うよりも、その後の米進駐軍の振る舞いは)、青年吉本にとって衝撃だった。

(つづく)

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2012年2月 4日 (土)

山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む(1)

たいへんためになった。
もっと早く読んでおけばよかった。

いわゆる戦中派、戦争当時10~20代だった人たちが、昭和20年8月15日をどのように過ごした(または過ごせなかった)のか、この本を読んで多少は実感的にイメージできるようになった気がする。

文中に「軍国主義を骨の髄まで叩きこまれた世代」という表現が繰り返し出てくるように、戦中派は天皇制以外の社会体制を知らない。
日本人の優越性を疑うことを知らず、疑う方法すらわからない。

山田風太郎は昭和20年当時23歳だから、戦中派の中でも比較的年長の部類と言ってもいいと思うが、それを差し引いても、この世代の中では図抜けて客観的かつ冷静に戦局や国内の状況を見つめていることに、まずは驚く。(巻末の解説で橋本治が鋭くも指摘しているとおり、それは幼い頃に両親をなくした山田風太郎の特異な境遇とも関係あるだろう)
日米間の圧倒的な国力の差や、大本営の場当たり的な対応など、戦争の渦中にありながら、青年山田風太郎は極めて的確に分析している。
それは、この世代における最高の知性の1つといってよいのではないかと思えるほどだ。

しかし、その知性を持ってしても、やはり天皇制を疑うことはない。
8月15日の無条件降伏をすぐに受け入れることはない。(12月頃の日記になってやと内面が大きく動揺し始めるのがわかる)

最後の一兵卒まで戦い抜くべきだったと繰り返し記述し、戦犯として逮捕された東条英機の潔くない態度に慨嘆し、8月15日以降、何の説明もないまま手のひらを返したようにアメリカに媚び始める政府や周囲の「大人」たちに疑義を呈する。

自分がそれまで1ミリの疑いも持たずに全幅の信頼をおいてきたもの、全身全霊を注ぎ死の瀬戸際に追い込まれながらも守ろうとしてきたものが、ある日突然完全に否定されてしまうという体験。
それが一体どういうものなのか、どれほど過酷な体験なのかということは、頭ではわかったつもりになっても、なかなか実感的にイメージするのは難しい。
それがこの本を読んでいると、少しはイメージできるような気がしてくる。

戦地のドキュメントというのはそれなりにいろいろあるし、映像なども比較的豊富だが、終戦間際の庶民の生活ぶりがこれほど詳細に記録されているものは初めて読んだように思う。
医学生として学徒出陣を逃れた青年山田風太郎のこの冷静な記述の中でもいちばん印象的なのは、思っていた以上に庶民の人心が荒廃していることだ。
終戦の直前直後には、もはや誰にも周囲を気遣う余裕などなくなっていることがよくわかる。

誰もが、日本が負けるはずがないと信じている。
しかし同時に、連日連夜大規模な本土への空襲が続く中で、圧倒的な国力の差、物量の差を痛感してもいる。
大本営の発表などもはや誰も鵜呑みにはしていない。
実はもう日本はダメなんじゃないかと皆が予感しながらも、それを口に出すことをはばかり、表面的には、負けるはずがない、最後の1人まで戦い抜くのだと強気に振る舞う。

戦中派で当時14~15だったうちの叔母などは、終戦間際になっても日本が負けるなど夢にも思っていなかったそうだが、青年山田風太郎はその欺瞞を看破している。
日本国民全員が芝居をしているようだ、と記述する。

なのに、そこまで客観的であり得ていながらも、同時になお「神州日本」の優等を信じて疑うことはない。
この知性と盲信の両立に、戦中派の悲哀を強く感じる。

(つづく)

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2012年2月 3日 (金)

Alicia Keys『The Diary of Alicia Keys』を(いまごろ)聴く

今頃になってやっとちゃんと聴いてみたら、なんちゅうかっこよさ(笑)。

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