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2011年9月21日 (水)

『アメリカ音楽史』大和田俊之 を読む

講談社選書メチエ「アメリカ音楽史」大和田俊之 を読了。

大変面白かった。

アメリカでのポミュラーミュージックの学術的研究は量的にも質的にもものすごく進んでいるらしく、その膨大な研究成果を原書できちんと読み込んだ上で、著者自身の見解を軸に、ミンストレル・ショウの昔からヒップホップの現在までをきっちりとまとめてある。
こういう仕事はアカデミズムにいる人にしかできないので、こういうことをやってくれる人がどんどん出てきてくれると非常にありがたい。

内容を忘れてしまうともったいないので、備忘のためにも、個人的に「なるほどなあ」とか「そうだったのか」とか感心したところを簡単に箇条書きにしておきます。

・白人が顔を黒く塗って演技するミンストレル・ショウは、初期においてはアイルランド系の移民が多く、舞台で演奏される音楽はアイルランドのメロディに黒人英語をのせたものである。(「アメリカ音楽の父」フォスターもアイルランド系) 

・またミンストレル・ショウは、黒人に対する差別的で複雑な意識がそこに見られるというだけでなく、それ以前に、そもそも黒人差別の前提となる「白人性」が構築される場としてもとらえられる。白人が顔を黒く塗りつぶすことで、白人の中での多様な民族間の文化的差異が隠蔽され、黒人/白人という二項対立の差別構造のみが強化される。結果的に、新大陸で差別の対象となっていたアイルランド人やユダヤ人は、ブラックフェイスによって逆にその「白人」性のみが照射されることで、相対的な階級上昇を実現する装置としてミンストレル・ショウを利用できた。(なるほど!)

・ブルースの起源は、これまで、西アフリカの音楽→アメリカ南部での奴隷制下でのワークソング、フィールドホラー→ブルースの成立 という図式で直線的に語られてきたが、南部白人のマウンテン・ソングや、バーバーショップ・ハーモニー等、多様な音楽の影響をもっと検証すべき。カントリー・ブルースばかりが「本物」のブルースとみなされているが、ブルースという形式の成立には、その最も初期の段階から、ヴォードヴィル・ブルースとカントリー・ブルースの相互干渉があったのではないか。

・ティン・パン・アレーの作曲家は大半がユダヤ人。

・ジャズを黒人音楽として位置づけるなら、1940年代のビバップ革命よりも、59年のマイルス「カインド・オブ・ブルー」によるモード・ジャズの完成の方がはるかに重要。

・政治/文化/経済的なカテゴリーとしての「若者」は、50年代のロックンロールの誕生とともに社会的に浮上した。

・ロックンロールの衰退から64年のビートルズ登場までは「停滞期」ととらえられがちだが、フィル・スペクターらが当時のテクノロジーを駆使してテープによってのみ存在しうる新しいサウンドを創出した、ソウル、ファンクと呼ばれるジャンルの萌芽が見られた、ツイストの流行が、それまでのスウィングやシャッフルから平板な8ビートによるロックへの移行を加速した、サーフミュージックなどのインスト・バンドの対等がギターという楽器のアマチュア化を促した、フォーク人気がロックの誕生を準備した、アフリカ系アメリカ人や女性パフォーマーがたくさんメインストリームに登場してきた、等の点で決定的に重要なモメントである。(激しく同意!)

・ヒップホップの成立には、ヒスパニック系が少なからず関与している。

・アメリカ音楽の歴史はこれまで「白」と「黒」の相互干渉という視点からのみ語られてきたが、そこに「茶色(ラテン/ヒスパニック)」という要素を含めると、今後大きく書き換えられる可能性がある。

……等々、やっぱり書き出し始めるとキリがないな。

思い切りかいつまんで言えば、要するに、20年代は○○の時代、30年代の時代は△△の時代……だとか、ブルースは黒人音楽、カントリーは白人の音楽……などと、我々は大雑把かつ直線的にポピュラー音楽史をとらえがちだけれども、実際にはどの時代にも多様な音楽が存在していたし、人種によるジャンルの分節もそうシンプルではないということ。
そういうことが、アメリカの諸研究をふまえた上で、緻密に確認してある。
さらに、その折々の社会状況が音楽そのものの在り方や音楽の受容のされ方に与える影響は考えてみれば極めて甚大なわけで、その辺までしっかりおさえてあるところもたいへんありがたい。
このあたりが何と言ってもおもしろく、またためになった。

もちろん、細部には、それはちょっとどうかと思うようなところもないではない。

たとえば、モード・ジャズやジェームス・ブラウンに見られる「垂直性」から「水平性」への移行(といきなり書いてもわからないと思うけど)や「反復」の要素を、ポストモダニズムに結びつけるのはちょっと違和を感じるし、ブルースを取り上げた章も、新機軸を打ち出そうとするあまり従来の研究から一足飛びに飛躍しすぎではないかという気がする(個人的に、三井徹のブルース研究に愛着がありすぎるのかもしれないけど)。

ともあれ、アメリカ音楽が「他者を偽装するという欲望」によって駆動されてきたとする著者独自の視点はおもしろいと思うし、何より、そんな独自の視点などなくても、単にアカデミズムにおけるポピュラー音楽史研究の紹介者としてだけでもその存在は稀少でたいへん価値があると思う。
こういう本を出す研究者がもっと増えるといいなあ。

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