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2011年9月 6日 (火)

音楽を語ることの困難について(番外編)

番外編として小ネタを補足。

●「いい」演奏、「いい」音楽とは何か

まずは許光俊の発言から。

「本当にいい演奏というのは、少なくとも、まず正確さへの意志が強くあって、様式感もある。だけど、そういう意味で立派でありつつも、それを超えていると。客観的説得力もあるけれど、最終的には客観性よりも主観性のほうが強くなってしまうということです。」

なるほど。
これに尽きるような気もする。
もうちょっと具体的に言ってもらうと、

「チェリビダッケはミュンヘン・フィルを鍛え上げようとしたけど、いくら鍛え上げたって、ベルリン・フィルみたいな技量にはならないわけです。だけど、ベルリン・フィルなら簡単にノーミスで行ってしまうところを、ミュンヘン・フィルは苦労しながらやる。そうすると真剣さや緊張が違ってくる。結果として、音楽に独特の力が生まれる。ベルリン・フィルが正確な、でもどこか冷たい演奏をするのと、ミュンヘン・フィルがミスはあるけれど緊張感や情熱をもった演奏をするのとどっちがいいか。チェリビダッケはそこまでわかってやっていたはずですよ。」

なるほど、非常によくわかる。
ロックの単語に置き換えてみます。

「ニール・ヤングのクレイジーホースというバンドは何年キャリア積んでも全く上手くならないわけです。だけど、スタジオ・ミュージシャンなら簡単にノーミスでやってしまうところを、クレイジーホースは必死でやる。技術はなくても気持ちだけはやたらと熱い。真剣さや意気込みが違うので、結果として、音楽に独特の力が生まれる。スタジオ・ミュージシャンが正確な、でもどこか冷たい演奏をするのと、クレイジーホースがぎこちないけどテンションの高い情熱のこもった演奏をするのとどっちがいいか。ニール・ヤングはそこまでわかってあのバンドとつき合ってるはずですよ。」

要するに、許光俊が言っているのは、プロなんだから、正確に、様式的統一感を持ってきっちり演奏できるのは当たり前。そうした客観的な説得力は当然持った上で、強烈な主観的世界を見せてほしい、と。そういうことだろう。

ロックの世界がちょっと違うのは、プロでも正確に演奏できない人が結構いるという点であって(笑)、それは要求される演奏力の水準がクラシックに比べると格段に低いからだけれども、だからこそ、演奏力よりもずっと強烈な主観性が示されなければ面白くない、ということにもなる。
場合によっては、正確であることがかえってマイナスポイントになることすらあるだろう。

たとえが古くてナンだけども、ブルーハーツというバンドは、とにかく演奏が下手だった。
25年くらい前、喜納昌吉目当てで観に行ったイベントにたまたまデビュー前のブルーハーツが出演していて、そのときに偶然初めて観たのだけれども、とにかくひっくり返るくらい下手だった。
が、それでも、「このバンド、なんかすごくいい!」 と思ったのを覚えている。

175R とかだときちんと演奏できててもイラっとくるのに、ブルーハーツはなぜ許せるのか。
その辺のところを言葉で説明するのはとても難しい。
「わからないヤツはいつまでたってもわからない」とでも言って片付けるしかないのかもしれない。

昔、憂歌団の内田勘太郎もブルーハーツのことをほめていて、「演奏力はあれでいいのか」と聞かれたら、「ああいう音楽やるなら、あれくらいで十分だ」というような答え方をしていたのに感銘を受けた。
それよりももっと大事な部分があるのだということを、勘太郎は言わんとしているのだ。

技術をどう評価するかというのは、クラシックのみならず、ポップミュージックの評論においても、ものすごくデリケートで難しい問題だと思う。

勘太郎は、「お客は技術では感動しまへん」とよく言っていた。
また、「日本には何でも出来る器用で上手なギタリストはたくさんいるが、そうなってしまってはつまらない」「何でも屋さんにならないように、偏ったジャンルしか弾かないように心がけてきた」といったようなこともよく言っていた。
内田勘太郎のあの独特のスタイルは、かなり意識的に形成されたものなのだ。

「いい演奏」や「いい音楽」というのを、単純な演奏技術のみではかれるのであれば話は簡単で、数値化すらできるかもしれない。
が、現実には、「上手いだけでつまらない演奏」や「下手だけど感動を呼ぶ演奏」というのがいくらでもある。

それをどのように言語化していくかというのが、つまるところ音楽評論の永遠の課題であるように思う。

●技術論について

許光俊の発言から。

「評論家に対する苦情として、あいつは自分ではできもしないのにみたいなところがある。そういうレベルの低い苦情というか愚痴はやめてほしい。男は子どもを産めないのだから、女を批判してはいけないとか、そういうレベルのことですからね。テクニックのことなんか気にしないで、もっと大きい見地から見られるようにするということなんですよ。」

要するに、
“偉そうなことばっかり言いやがって。そんじゃあお前やってみろよ”
っていうアーティスト側からのアレ。

これについて、渋谷陽一は、次のような言い方をしていたと思う。

「当たり前のことだが、音楽評論に価値があるとすれば、それは文学的価値であって、音楽的価値ではない」(思い出しながら書いてるので引用は適当です)

つまり、音楽評論は文学であって音楽そのものではない、音楽評論家は音楽家ではなく文学者である。
そんな当たり前なこともわからないのか、と。

言い方は違うけど、両者はまあほぼ同じことを言ってる。
そして、当然両者とも、ごくごく基本的な、当たり前のことを言っているだけだ。

にもかかわらず、とかく音楽評論の世界では、この当たり前が通らないことがよくある。
自身が演奏技術を持たない批評家、それゆえ技術論が得意でない批評家は、なんとなく引け目を感じずにはいられないような状況によく追い込まれる。

論理的に考えれば、許や渋谷の言っていることが正しいのは間違いない。
楽器を演奏できない者が音楽を批評してはいけないのだったら、小説を書けない者が文芸批評をするのもいけないことになるし、て言うか、そもそもあらゆる批評行為が成立しなくなる。

しかし、批判される側の気持ちもわからないではない。
テクニカルなことなど何もわかっていないズブのど素人に、自身の意図からするとまるで見当外れにしか思えないような批判をされてしまうことは(ことポップミュージックの世界においては)よくあるだろうし、また逆に、そんな素人にほめられたとしても対して嬉しくもないのかもしれない。
長い時間をかけて必死の思いで生み出した作品をお前らのような素人が偉そうにそんな簡単にどうのこうの言うな、とか言いたくなる気持ちもまあわかる。

が、それでもやはり、(ポップ・ミュージシャンなら特に、だけども)、公に作品を発表するというのは、そういう目に遭うということとイコールなのであって、それは引き受けていかなければならないのではないかと思う。
ミュージシャンは一人一人のリスナーの“聴き方”まで指示することはできない。

かつて(今でも?)、山下達郎は批評家の発言に対してたいへん敏感で厳しいミュージシャンであり、批評家の的外れな物言いには真っ向から反論することがよくあった。
それはそれでひとつのやり方(言論に対しては言論で!)だと思うけれども、どうかと思うこともある。
ずいぶん昔、ブライアン・ウィルソンの生い立ちなどが赤裸々に記述されているビーチボーイズ本が出版されて少々話題になったとき、山達がレコードコレクターズだったかミュージックマガジンだったかに書いていた文章をよく覚えている。
山達は、「ぼくが知りたいのは、こんな芸能ニュースのような私生活の話などではない。例えば、ビーチボーイズのベースラインはなぜことごとくルートを避けるのか、とか、そういうことを知りたいのだ」といったような論旨で本を批判していた。

ミュージシャンとしての山下達郎はもちろん極めて優秀だと思うけれども、これを読んだときは、それはちょっと違うんじゃないのと思った。
確かに自分でも少々音楽を嗜む身としては、あのルートを避けるベースラインも気になるけれども、大多数の一般リスナーが知りたいのは、ベースラインの秘密よりも、ブライアン・ウィルソンのバックグラウンドだろう。
「生い立ちや人となりなど関係ない。純粋に音楽を聴いてくれ」というのも一理だが、アーティストのバックグラウンドを出来る限りふまえた上で作品に向き合うというのも、また1つの聴き方である。
実際、文芸批評などにおいては、そうした手法はごく普通だろう。
有名になればなるほど、表現者として優秀であればあるほど、何もかも根掘り葉掘り調べられてしまうのは、ある程度仕方がない。
そして、そうしたバックグラウンドを踏まえた上での批評に意味が無いかと言うと、決してそうは思えない。

論旨がずれてきたので話を戻します。

批評家に技術論は必要か。
音楽評論家は音楽理論や楽器・機材、演奏技術にまで精通しているべきか。

凡庸な結論としては、「それは必須ではない。しかし、できるに越したことはない」ということかもしれない。

確かに、批評家が「批評」のみならず、「解説」者としても振る舞うのであるならば、技術論はやれるべきだ。
ただ、「批評」と「解説」はやはり別モノである。

例えば、渋谷陽一がTOTOやジャーニーを容赦なく敵視できたのは、渋谷が技術論を持っていないからだろう。
技術論で語るならば、TOTOほど興味深いバンドはそう多くはないからだ。
しかし、だからと言って、技術論を持たない渋谷陽一にTOTOをけなす資格はない、などというのは、もちろん不当である。

これについては、やはり許光俊がおもしろい言い方をしている。

「よくプロ受けがいい演奏家っているじゃないですか。もちろんそれはそれでいいんですが、どうかと思うことがあるんです。プロは高い声が出るとか、大きな声が出るとか。彼が指揮をすると破綻が起きなくてすごいとか、表現や解釈のレベルじゃなくて、まずそこで感心しちゃう傾向がある。やってる人からすれば羨ましいのでしょうが、聴衆からすればどうでもいいことでね。大きな声が出て当たり前、弾けて当たり前、破綻がなくて当たり前、だってプロなんだから。その先が肝心。その先を聴きたくてお金を出して聴きに行く。」

つまり、些末な技術論ではなく、もっと大きい見地で語れ、ということ。

音楽をある程度技術的に聴ける人、たとえばジェフ・ポーカロがいかにすごいことやってるかっていうのがわかる人にとっては、TOTOはそう簡単にけなせないどころか、前のめりになって耳を傾けてしまうようなところがたくさんあるバンドだろう。
しかし、そうした技術が駆使された結果、そこで表現されているのは何か、というのはまた全くの別問題だ。
一般のリスナーにとっては、そこに注ぎ込まれている技術などはどうでもいい話で、結果的にそれがどう聞こえるかだけが問題なわけである。
ブルーハーツの演奏が、プロの演奏家からすれば耐えられないほど単純であっても、結果的にそこで表現されているもののチャームは絶大な支持者を得たのであって、下手だからというだけでそれを無価値であると見なすことはもちろんできない。
渋谷陽一が技術を理解しないままにTOTOを批判することは全くあってよいことで、「上手かろうが下手であろうが結果的につまらない」というのは、むしろごくごく基本的な批評家の姿勢であるべきだろう。

ただ、さらにややこしいのは、そんじゃあ技術をきちんと解する者がTOTOを聴いてその技術に感動しちゃいかんのか、と。
アホみたいな詞であろうが露骨な売れ線ねらいであろうが何であろうがそんなことは自分には関係ない、純粋な演奏技術だけで感動的じゃないか、というような人に対して、批評は何を語ればいいのかということだ。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、そういうタイプのリスナーは、そもそも「情報」や「解説」を必要としているだけで、「批評」とは縁遠い人なのだと割り切って済ませてしまうのもいいのかもしれない。
つまり、そういう人は、「音楽」にはとても向いているのだけれども、音楽評論という「文学」には向いていない、「文学」のよさがあまりわからない人なのだ、と。

とは言いながらもやはり一方では、いやいやもちろん技術論を中心に据えた「批評」もちゃんと成立すべきであって、技術そのものが総体としての表現にどのように貢献しているかは当然「批評」が語るべき王道であるという言い方もできる。

これについても、許光俊の興味深い発言を。

「とは言え、技術は結果を出すための手段なのか、それ自体が音楽美のひとつなのか、これは一概に言えないですよ。たとえば、ピアノのミケランジェリの場合、技術自体が音楽美になっている場面がある。……多分、日本の聴衆は、上手さに対して期待というか幻想というか、すごく夢をもっているんですね。なぜかというと、自分で楽器をやっている人が比較的多いからですよ。だからとりあえずうまいのを聴くと喜んでしまう。」

この、技術自体が音楽美のひとつになり得る、というのはなかなか重要な視点であって、たとえば一部のハードロックのように、ギターソロの技術の高さがそのまま音楽全体の魅力として重要な要素になるような分野もあるわけで、そこでは技術論も決して軽視はできない。

つまるところ、音楽評論とはいかにあるべきなのかという問題に関して、「音楽の聴き方って人それぞれだよね」っていう相対主義に陥らないように結論らしきものをまとめるならば、許が言うように、

「評論自体の楽しさというか快楽とか、そういうのを感じさせる人がいませんよね。……評論は、音楽のおまけみたいになっている。違うんですよ、音楽が人間の活動であるように、言葉で何かを言うのも人間の活動で、どちらもおもしろくて、二つが交差したところに評論が生まれる。どっちが上というのではない。」

というところまでしか言えないのかもしれない。

つまり、再度渋谷陽一の言い方で言うなら、「音楽評論に価値があるとすれば、それは文学的価値であって、音楽的価値ではない」ということだ。

技術を語る・語らない、語れる・語らないは、スタイルの違いであって、優劣の違いではない。
音楽評論は音楽ではなく文学なのであって、優れた音楽評論は、音楽的に優れているわけではなく、文学的に優れているわけである。
何をどのように語っていようが、そこに「評論の快楽」がないとダメだ、と。

ヴァン・ヘイレンを批評するときに、エディ・ヴァン・ヘイレンの技術論として、ハードロックにおけるギタープレイの系譜学的な流れから分析してみたり、使用機材やテクニックを詳細に調査したりするのももちろん1つのスタイルだろう。
それはそれで必要な仕事だ。

一方、たとえば渋谷陽一は、ヴァン・ヘイレンの「JUMP」について、「エディ・ヴァン・ヘイレンが弾いてるイントロのシンセサイザーのフレーズは、彼が弾く歪んだギターと全く同じように凶暴だ」といったようなことを書いていた。(うろ覚えだけど)
ここには技術論は何もないけれども、非常に鋭く、またヴァン・ヘイレンの音楽を総合的かつ端的に表現したとても巧妙な指摘だと思う。

いくら技術論に精通していても、ヴァン・ヘイレンの音楽に潜む凶暴な初期衝動のカタルシスをキャッチし表現できない批評家は、結論としてはダメだ。
技術を語る・語らないは単なるアプローチの違いであって、どのような経路をたどっても、「いいものがわかる人」は、最終的に同じゴールにたどり着くのが本来であると思う。

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コメント

ほほー、個人的に今回かなりグッと来た。
こないだの学園祭のオーディションで感じたのがまさにこれ。
OBの人たちからはプレイヤーとしての厳しい意見があったけど、リスナーとしてはそんなことどうでもいいやってのが結構あったし。

投稿: torrissey | 2011年9月 7日 (水) 00時17分

Blue heartsをYoutubeがお勧めにたまたま表示したので同名のパチスロ機が懐かしくて聴いてみたら とても良くて何曲か続けて聴いてみた。
え?
これがプロの演奏? という疑問がフツフツと湧いてきた。
確かにボーカル凄えけど 演奏してる連中ボーカルをじゃましちゃってる。 パンクだから良いとはならないよね。

多分 日本人の音楽性(テクニックに関する慣れ的な)がまだ牧歌的な時代だったのでしょうね。
60ー70年代のフォークシンガーの歌唱力とか酷いもの。
だからこそ? 時代を超越して今でも惚れてしまう甲本ヒロトの歌は凄い!

投稿: ちばーず | 2016年2月19日 (金) 22時42分

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