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2011年9月

2011年9月29日 (木)

PCオーディオへの道(1)

きっかけは携帯電話だった。

2005年の春に生まれて初めて買った携帯を使い続けること6年。

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オサイフケータイどころか赤外線通信ですらきず、高校生とかに見せると、「それ何? え? 携帯?」などと言われる始末だったが、まだ電池ももつし、ずっと使うつもりでいた。
が、6年目にしてあえなく水没。
不本意ながら機種変更せざるを得ない状況に追い込まれた。

時すでにauもスマホの時代。
しかし、携帯にそんな混みいった機能は求めていない。
デザイン重視で iida のG11にした。

買い換えてみて、その多機能ぶりに驚いた。
別に普通の携帯なんだけど。
21世紀において、6年の歳月はあまりに長かった。

それまでは、iPod をはじめ、デジタルミュージックプレーヤーにも一切無縁だった。
外で音楽を聞く機会などほとんどないし、あんなローファイでわざわざ聴こうとも思わない。

しかし、G11にも、microSDをぶち込めば相当な量の音楽が持ち運べると知り、ちょっと試してみようと思い立った。

ノートパソコンに LISMO Port をインストールし、片っ端からCDを取り込んで、携帯に転送する。

いざやってみると、これがなかなか楽しいではないか。
イヤホンも、SONY のEX500SLを購入。
もちろん、決して満足のいく音が出るわけではないけれども、外で聴くならこれで十分じゃん、と。
別に iPod とかいらないじゃん、とか。

なんせ、そうやって音楽を持ち運ぶということが初めてなので、それだけで楽しくて、ころっと宗旨替えと相成った。
手当たり次第に気に入ったCDをぶち込んでいく。

が、しかし。
楽しかったのもほんのつかの間。
しばらくすると、だんだん疑問が生じてきた。

まず、CDを取り込むのが、やたらめんどくさい。
しかも、いったんPCに取り込んでから、また携帯に転送しなきゃならない。
なおかつLISMOでPCに取り込んだデータは、WAV ではなくて、ATRACとかいうソニー系のフォーマットであって、さらにそれを携帯に転送すると、HE-AACなどというファイルに変換されてしまう。

つまり、こんなに苦労して携帯(内のmicroSD)に取り込んでも、たとえばそのmicroSDを引っこ抜いて他のプレーヤーで聴くっちゅうこうとはできないし、PC内にあるデータも、例えば Apple の機器などには送れないというわけだ。

最初は楽しかったんだけども、これは割に合わないんじゃないかと思えてきた。
microSDカードがオシャカにでもなったら、泣くに泣けない。
これは何かが間違っている。

そう感じていたところ、偶然手にとったのが、講談社ブルーバックスの、「大人のための新オーディオ鑑賞術」by たくきよしみつ

これを読んで、一気に啓蒙されてしまった。

うーむ、なるほど、そうだったのか。
やはり地道にこつこつ携帯にCD取り込んでても報われないのだ。

この本をきっかけにして、事態はあらぬ方向へ進展するのであった。

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2011年9月21日 (水)

『アメリカ音楽史』大和田俊之 を読む

講談社選書メチエ「アメリカ音楽史」大和田俊之 を読了。

大変面白かった。

アメリカでのポミュラーミュージックの学術的研究は量的にも質的にもものすごく進んでいるらしく、その膨大な研究成果を原書できちんと読み込んだ上で、著者自身の見解を軸に、ミンストレル・ショウの昔からヒップホップの現在までをきっちりとまとめてある。
こういう仕事はアカデミズムにいる人にしかできないので、こういうことをやってくれる人がどんどん出てきてくれると非常にありがたい。

内容を忘れてしまうともったいないので、備忘のためにも、個人的に「なるほどなあ」とか「そうだったのか」とか感心したところを簡単に箇条書きにしておきます。

・白人が顔を黒く塗って演技するミンストレル・ショウは、初期においてはアイルランド系の移民が多く、舞台で演奏される音楽はアイルランドのメロディに黒人英語をのせたものである。(「アメリカ音楽の父」フォスターもアイルランド系) 

・またミンストレル・ショウは、黒人に対する差別的で複雑な意識がそこに見られるというだけでなく、それ以前に、そもそも黒人差別の前提となる「白人性」が構築される場としてもとらえられる。白人が顔を黒く塗りつぶすことで、白人の中での多様な民族間の文化的差異が隠蔽され、黒人/白人という二項対立の差別構造のみが強化される。結果的に、新大陸で差別の対象となっていたアイルランド人やユダヤ人は、ブラックフェイスによって逆にその「白人」性のみが照射されることで、相対的な階級上昇を実現する装置としてミンストレル・ショウを利用できた。(なるほど!)

・ブルースの起源は、これまで、西アフリカの音楽→アメリカ南部での奴隷制下でのワークソング、フィールドホラー→ブルースの成立 という図式で直線的に語られてきたが、南部白人のマウンテン・ソングや、バーバーショップ・ハーモニー等、多様な音楽の影響をもっと検証すべき。カントリー・ブルースばかりが「本物」のブルースとみなされているが、ブルースという形式の成立には、その最も初期の段階から、ヴォードヴィル・ブルースとカントリー・ブルースの相互干渉があったのではないか。

・ティン・パン・アレーの作曲家は大半がユダヤ人。

・ジャズを黒人音楽として位置づけるなら、1940年代のビバップ革命よりも、59年のマイルス「カインド・オブ・ブルー」によるモード・ジャズの完成の方がはるかに重要。

・政治/文化/経済的なカテゴリーとしての「若者」は、50年代のロックンロールの誕生とともに社会的に浮上した。

・ロックンロールの衰退から64年のビートルズ登場までは「停滞期」ととらえられがちだが、フィル・スペクターらが当時のテクノロジーを駆使してテープによってのみ存在しうる新しいサウンドを創出した、ソウル、ファンクと呼ばれるジャンルの萌芽が見られた、ツイストの流行が、それまでのスウィングやシャッフルから平板な8ビートによるロックへの移行を加速した、サーフミュージックなどのインスト・バンドの対等がギターという楽器のアマチュア化を促した、フォーク人気がロックの誕生を準備した、アフリカ系アメリカ人や女性パフォーマーがたくさんメインストリームに登場してきた、等の点で決定的に重要なモメントである。(激しく同意!)

・ヒップホップの成立には、ヒスパニック系が少なからず関与している。

・アメリカ音楽の歴史はこれまで「白」と「黒」の相互干渉という視点からのみ語られてきたが、そこに「茶色(ラテン/ヒスパニック)」という要素を含めると、今後大きく書き換えられる可能性がある。

……等々、やっぱり書き出し始めるとキリがないな。

思い切りかいつまんで言えば、要するに、20年代は○○の時代、30年代の時代は△△の時代……だとか、ブルースは黒人音楽、カントリーは白人の音楽……などと、我々は大雑把かつ直線的にポピュラー音楽史をとらえがちだけれども、実際にはどの時代にも多様な音楽が存在していたし、人種によるジャンルの分節もそうシンプルではないということ。
そういうことが、アメリカの諸研究をふまえた上で、緻密に確認してある。
さらに、その折々の社会状況が音楽そのものの在り方や音楽の受容のされ方に与える影響は考えてみれば極めて甚大なわけで、その辺までしっかりおさえてあるところもたいへんありがたい。
このあたりが何と言ってもおもしろく、またためになった。

もちろん、細部には、それはちょっとどうかと思うようなところもないではない。

たとえば、モード・ジャズやジェームス・ブラウンに見られる「垂直性」から「水平性」への移行(といきなり書いてもわからないと思うけど)や「反復」の要素を、ポストモダニズムに結びつけるのはちょっと違和を感じるし、ブルースを取り上げた章も、新機軸を打ち出そうとするあまり従来の研究から一足飛びに飛躍しすぎではないかという気がする(個人的に、三井徹のブルース研究に愛着がありすぎるのかもしれないけど)。

ともあれ、アメリカ音楽が「他者を偽装するという欲望」によって駆動されてきたとする著者独自の視点はおもしろいと思うし、何より、そんな独自の視点などなくても、単にアカデミズムにおけるポピュラー音楽史研究の紹介者としてだけでもその存在は稀少でたいへん価値があると思う。
こういう本を出す研究者がもっと増えるといいなあ。

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2011年9月 6日 (火)

音楽を語ることの困難について(番外編)

番外編として小ネタを補足。

●「いい」演奏、「いい」音楽とは何か

まずは許光俊の発言から。

「本当にいい演奏というのは、少なくとも、まず正確さへの意志が強くあって、様式感もある。だけど、そういう意味で立派でありつつも、それを超えていると。客観的説得力もあるけれど、最終的には客観性よりも主観性のほうが強くなってしまうということです。」

なるほど。
これに尽きるような気もする。
もうちょっと具体的に言ってもらうと、

「チェリビダッケはミュンヘン・フィルを鍛え上げようとしたけど、いくら鍛え上げたって、ベルリン・フィルみたいな技量にはならないわけです。だけど、ベルリン・フィルなら簡単にノーミスで行ってしまうところを、ミュンヘン・フィルは苦労しながらやる。そうすると真剣さや緊張が違ってくる。結果として、音楽に独特の力が生まれる。ベルリン・フィルが正確な、でもどこか冷たい演奏をするのと、ミュンヘン・フィルがミスはあるけれど緊張感や情熱をもった演奏をするのとどっちがいいか。チェリビダッケはそこまでわかってやっていたはずですよ。」

なるほど、非常によくわかる。
ロックの単語に置き換えてみます。

「ニール・ヤングのクレイジーホースというバンドは何年キャリア積んでも全く上手くならないわけです。だけど、スタジオ・ミュージシャンなら簡単にノーミスでやってしまうところを、クレイジーホースは必死でやる。技術はなくても気持ちだけはやたらと熱い。真剣さや意気込みが違うので、結果として、音楽に独特の力が生まれる。スタジオ・ミュージシャンが正確な、でもどこか冷たい演奏をするのと、クレイジーホースがぎこちないけどテンションの高い情熱のこもった演奏をするのとどっちがいいか。ニール・ヤングはそこまでわかってあのバンドとつき合ってるはずですよ。」

要するに、許光俊が言っているのは、プロなんだから、正確に、様式的統一感を持ってきっちり演奏できるのは当たり前。そうした客観的な説得力は当然持った上で、強烈な主観的世界を見せてほしい、と。そういうことだろう。

ロックの世界がちょっと違うのは、プロでも正確に演奏できない人が結構いるという点であって(笑)、それは要求される演奏力の水準がクラシックに比べると格段に低いからだけれども、だからこそ、演奏力よりもずっと強烈な主観性が示されなければ面白くない、ということにもなる。
場合によっては、正確であることがかえってマイナスポイントになることすらあるだろう。

たとえが古くてナンだけども、ブルーハーツというバンドは、とにかく演奏が下手だった。
25年くらい前、喜納昌吉目当てで観に行ったイベントにたまたまデビュー前のブルーハーツが出演していて、そのときに偶然初めて観たのだけれども、とにかくひっくり返るくらい下手だった。
が、それでも、「このバンド、なんかすごくいい!」 と思ったのを覚えている。

175R とかだときちんと演奏できててもイラっとくるのに、ブルーハーツはなぜ許せるのか。
その辺のところを言葉で説明するのはとても難しい。
「わからないヤツはいつまでたってもわからない」とでも言って片付けるしかないのかもしれない。

昔、憂歌団の内田勘太郎もブルーハーツのことをほめていて、「演奏力はあれでいいのか」と聞かれたら、「ああいう音楽やるなら、あれくらいで十分だ」というような答え方をしていたのに感銘を受けた。
それよりももっと大事な部分があるのだということを、勘太郎は言わんとしているのだ。

技術をどう評価するかというのは、クラシックのみならず、ポップミュージックの評論においても、ものすごくデリケートで難しい問題だと思う。

勘太郎は、「お客は技術では感動しまへん」とよく言っていた。
また、「日本には何でも出来る器用で上手なギタリストはたくさんいるが、そうなってしまってはつまらない」「何でも屋さんにならないように、偏ったジャンルしか弾かないように心がけてきた」といったようなこともよく言っていた。
内田勘太郎のあの独特のスタイルは、かなり意識的に形成されたものなのだ。

「いい演奏」や「いい音楽」というのを、単純な演奏技術のみではかれるのであれば話は簡単で、数値化すらできるかもしれない。
が、現実には、「上手いだけでつまらない演奏」や「下手だけど感動を呼ぶ演奏」というのがいくらでもある。

それをどのように言語化していくかというのが、つまるところ音楽評論の永遠の課題であるように思う。

●技術論について

許光俊の発言から。

「評論家に対する苦情として、あいつは自分ではできもしないのにみたいなところがある。そういうレベルの低い苦情というか愚痴はやめてほしい。男は子どもを産めないのだから、女を批判してはいけないとか、そういうレベルのことですからね。テクニックのことなんか気にしないで、もっと大きい見地から見られるようにするということなんですよ。」

要するに、
“偉そうなことばっかり言いやがって。そんじゃあお前やってみろよ”
っていうアーティスト側からのアレ。

これについて、渋谷陽一は、次のような言い方をしていたと思う。

「当たり前のことだが、音楽評論に価値があるとすれば、それは文学的価値であって、音楽的価値ではない」(思い出しながら書いてるので引用は適当です)

つまり、音楽評論は文学であって音楽そのものではない、音楽評論家は音楽家ではなく文学者である。
そんな当たり前なこともわからないのか、と。

言い方は違うけど、両者はまあほぼ同じことを言ってる。
そして、当然両者とも、ごくごく基本的な、当たり前のことを言っているだけだ。

にもかかわらず、とかく音楽評論の世界では、この当たり前が通らないことがよくある。
自身が演奏技術を持たない批評家、それゆえ技術論が得意でない批評家は、なんとなく引け目を感じずにはいられないような状況によく追い込まれる。

論理的に考えれば、許や渋谷の言っていることが正しいのは間違いない。
楽器を演奏できない者が音楽を批評してはいけないのだったら、小説を書けない者が文芸批評をするのもいけないことになるし、て言うか、そもそもあらゆる批評行為が成立しなくなる。

しかし、批判される側の気持ちもわからないではない。
テクニカルなことなど何もわかっていないズブのど素人に、自身の意図からするとまるで見当外れにしか思えないような批判をされてしまうことは(ことポップミュージックの世界においては)よくあるだろうし、また逆に、そんな素人にほめられたとしても対して嬉しくもないのかもしれない。
長い時間をかけて必死の思いで生み出した作品をお前らのような素人が偉そうにそんな簡単にどうのこうの言うな、とか言いたくなる気持ちもまあわかる。

が、それでもやはり、(ポップ・ミュージシャンなら特に、だけども)、公に作品を発表するというのは、そういう目に遭うということとイコールなのであって、それは引き受けていかなければならないのではないかと思う。
ミュージシャンは一人一人のリスナーの“聴き方”まで指示することはできない。

かつて(今でも?)、山下達郎は批評家の発言に対してたいへん敏感で厳しいミュージシャンであり、批評家の的外れな物言いには真っ向から反論することがよくあった。
それはそれでひとつのやり方(言論に対しては言論で!)だと思うけれども、どうかと思うこともある。
ずいぶん昔、ブライアン・ウィルソンの生い立ちなどが赤裸々に記述されているビーチボーイズ本が出版されて少々話題になったとき、山達がレコードコレクターズだったかミュージックマガジンだったかに書いていた文章をよく覚えている。
山達は、「ぼくが知りたいのは、こんな芸能ニュースのような私生活の話などではない。例えば、ビーチボーイズのベースラインはなぜことごとくルートを避けるのか、とか、そういうことを知りたいのだ」といったような論旨で本を批判していた。

ミュージシャンとしての山下達郎はもちろん極めて優秀だと思うけれども、これを読んだときは、それはちょっと違うんじゃないのと思った。
確かに自分でも少々音楽を嗜む身としては、あのルートを避けるベースラインも気になるけれども、大多数の一般リスナーが知りたいのは、ベースラインの秘密よりも、ブライアン・ウィルソンのバックグラウンドだろう。
「生い立ちや人となりなど関係ない。純粋に音楽を聴いてくれ」というのも一理だが、アーティストのバックグラウンドを出来る限りふまえた上で作品に向き合うというのも、また1つの聴き方である。
実際、文芸批評などにおいては、そうした手法はごく普通だろう。
有名になればなるほど、表現者として優秀であればあるほど、何もかも根掘り葉掘り調べられてしまうのは、ある程度仕方がない。
そして、そうしたバックグラウンドを踏まえた上での批評に意味が無いかと言うと、決してそうは思えない。

論旨がずれてきたので話を戻します。

批評家に技術論は必要か。
音楽評論家は音楽理論や楽器・機材、演奏技術にまで精通しているべきか。

凡庸な結論としては、「それは必須ではない。しかし、できるに越したことはない」ということかもしれない。

確かに、批評家が「批評」のみならず、「解説」者としても振る舞うのであるならば、技術論はやれるべきだ。
ただ、「批評」と「解説」はやはり別モノである。

例えば、渋谷陽一がTOTOやジャーニーを容赦なく敵視できたのは、渋谷が技術論を持っていないからだろう。
技術論で語るならば、TOTOほど興味深いバンドはそう多くはないからだ。
しかし、だからと言って、技術論を持たない渋谷陽一にTOTOをけなす資格はない、などというのは、もちろん不当である。

これについては、やはり許光俊がおもしろい言い方をしている。

「よくプロ受けがいい演奏家っているじゃないですか。もちろんそれはそれでいいんですが、どうかと思うことがあるんです。プロは高い声が出るとか、大きな声が出るとか。彼が指揮をすると破綻が起きなくてすごいとか、表現や解釈のレベルじゃなくて、まずそこで感心しちゃう傾向がある。やってる人からすれば羨ましいのでしょうが、聴衆からすればどうでもいいことでね。大きな声が出て当たり前、弾けて当たり前、破綻がなくて当たり前、だってプロなんだから。その先が肝心。その先を聴きたくてお金を出して聴きに行く。」

つまり、些末な技術論ではなく、もっと大きい見地で語れ、ということ。

音楽をある程度技術的に聴ける人、たとえばジェフ・ポーカロがいかにすごいことやってるかっていうのがわかる人にとっては、TOTOはそう簡単にけなせないどころか、前のめりになって耳を傾けてしまうようなところがたくさんあるバンドだろう。
しかし、そうした技術が駆使された結果、そこで表現されているのは何か、というのはまた全くの別問題だ。
一般のリスナーにとっては、そこに注ぎ込まれている技術などはどうでもいい話で、結果的にそれがどう聞こえるかだけが問題なわけである。
ブルーハーツの演奏が、プロの演奏家からすれば耐えられないほど単純であっても、結果的にそこで表現されているもののチャームは絶大な支持者を得たのであって、下手だからというだけでそれを無価値であると見なすことはもちろんできない。
渋谷陽一が技術を理解しないままにTOTOを批判することは全くあってよいことで、「上手かろうが下手であろうが結果的につまらない」というのは、むしろごくごく基本的な批評家の姿勢であるべきだろう。

ただ、さらにややこしいのは、そんじゃあ技術をきちんと解する者がTOTOを聴いてその技術に感動しちゃいかんのか、と。
アホみたいな詞であろうが露骨な売れ線ねらいであろうが何であろうがそんなことは自分には関係ない、純粋な演奏技術だけで感動的じゃないか、というような人に対して、批評は何を語ればいいのかということだ。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、そういうタイプのリスナーは、そもそも「情報」や「解説」を必要としているだけで、「批評」とは縁遠い人なのだと割り切って済ませてしまうのもいいのかもしれない。
つまり、そういう人は、「音楽」にはとても向いているのだけれども、音楽評論という「文学」には向いていない、「文学」のよさがあまりわからない人なのだ、と。

とは言いながらもやはり一方では、いやいやもちろん技術論を中心に据えた「批評」もちゃんと成立すべきであって、技術そのものが総体としての表現にどのように貢献しているかは当然「批評」が語るべき王道であるという言い方もできる。

これについても、許光俊の興味深い発言を。

「とは言え、技術は結果を出すための手段なのか、それ自体が音楽美のひとつなのか、これは一概に言えないですよ。たとえば、ピアノのミケランジェリの場合、技術自体が音楽美になっている場面がある。……多分、日本の聴衆は、上手さに対して期待というか幻想というか、すごく夢をもっているんですね。なぜかというと、自分で楽器をやっている人が比較的多いからですよ。だからとりあえずうまいのを聴くと喜んでしまう。」

この、技術自体が音楽美のひとつになり得る、というのはなかなか重要な視点であって、たとえば一部のハードロックのように、ギターソロの技術の高さがそのまま音楽全体の魅力として重要な要素になるような分野もあるわけで、そこでは技術論も決して軽視はできない。

つまるところ、音楽評論とはいかにあるべきなのかという問題に関して、「音楽の聴き方って人それぞれだよね」っていう相対主義に陥らないように結論らしきものをまとめるならば、許が言うように、

「評論自体の楽しさというか快楽とか、そういうのを感じさせる人がいませんよね。……評論は、音楽のおまけみたいになっている。違うんですよ、音楽が人間の活動であるように、言葉で何かを言うのも人間の活動で、どちらもおもしろくて、二つが交差したところに評論が生まれる。どっちが上というのではない。」

というところまでしか言えないのかもしれない。

つまり、再度渋谷陽一の言い方で言うなら、「音楽評論に価値があるとすれば、それは文学的価値であって、音楽的価値ではない」ということだ。

技術を語る・語らない、語れる・語らないは、スタイルの違いであって、優劣の違いではない。
音楽評論は音楽ではなく文学なのであって、優れた音楽評論は、音楽的に優れているわけではなく、文学的に優れているわけである。
何をどのように語っていようが、そこに「評論の快楽」がないとダメだ、と。

ヴァン・ヘイレンを批評するときに、エディ・ヴァン・ヘイレンの技術論として、ハードロックにおけるギタープレイの系譜学的な流れから分析してみたり、使用機材やテクニックを詳細に調査したりするのももちろん1つのスタイルだろう。
それはそれで必要な仕事だ。

一方、たとえば渋谷陽一は、ヴァン・ヘイレンの「JUMP」について、「エディ・ヴァン・ヘイレンが弾いてるイントロのシンセサイザーのフレーズは、彼が弾く歪んだギターと全く同じように凶暴だ」といったようなことを書いていた。(うろ覚えだけど)
ここには技術論は何もないけれども、非常に鋭く、またヴァン・ヘイレンの音楽を総合的かつ端的に表現したとても巧妙な指摘だと思う。

いくら技術論に精通していても、ヴァン・ヘイレンの音楽に潜む凶暴な初期衝動のカタルシスをキャッチし表現できない批評家は、結論としてはダメだ。
技術を語る・語らないは単なるアプローチの違いであって、どのような経路をたどっても、「いいものがわかる人」は、最終的に同じゴールにたどり着くのが本来であると思う。

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