« 2011年6月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

2011年8月 1日 (月)

音楽を語ることの困難について(5)

渋谷陽一は、ポップ理論以前と以後で明らかにスタンスが変わったが、もちろんポップ理論以前の渋谷陽一も優れた批評家であったし、ポップ理論自体も突然変異的にいきなり生まれたものではなく、おそらくは徐々に醸成されてきたものだろうと思う。
特に70年代から主張していた「ビートルズ穴ぼこ理論」は、ポップ理論を生み出すベースになるものとして注目したい。

注)ビートルズ穴ぼこ理論 …… ビートルズがかくも巨大な存在となり得たのは、ビートルズの音楽的才能がそれほどまでに巨大でワンアンドオンリーなものだったから、ではない。社会の側にビートルズ的なものを求める巨大な欠落部分があったにもかかわらず、それを満たすものがビートルズ以前には何もなかった。その巨大な欠落(穴ぼこ)をビートルズが一気に埋めたのだ。……とする理論。「ロック批評に社会学を持ち込んだ」と評価された。

渋谷陽一は、個別の作品論を語らせても(やや文学的に偏る傾向はあるが)もちろん優れた批評家だと思う。
が、他の音楽ライターとの比較において決定的に異なるのは、この穴ぼこ理論~ポップ理論へとつながっていく流れに見られるような、ポップミュージック全体をとらえようとする大きな視座だろう。
後には中村とうようとの論争などもあったが、結局は問題設定が別の水準にあるのだから、かみ合うことはない。
渋谷陽一が論争で「負けない」のは、渋谷が師と仰ぐ吉本隆明が負けないのと(スケールは違うが)同じ構造である。
相手よりも1段も2段も下の階層から対象をすくい取るような手法は、おそらく吉本の影響を強く受けているのではないかと思う。

ただ、渋谷陽一の場合は、この視座の広さ、よりラジカルな視点から対象を捉えようとするスタンスこそが、極めて優れた点であると同時に、ウィークポイントにもなっているようにも思うのだ。
身も蓋もない言い方になるけれども、なんだかんだ言って、しょせんポップミュージック評論では、最終的に各論レベルでどうこう言ってなんぼでしょ、っていうことだってあるからである。

さて、すごく長くなったけれども、そもそもはこれまでが前振りで、以下が本論、のつもりだった。(間を空けすぎてワケがわからなくなってきた)

渋谷陽一のポップ理論は果たして完璧だったのか。
今でも有効なのか。

ポップ理論発表当時、自分は高校生で、そのスリリングな論理に衝撃を受け、何の疑いもなく100%信奉していた。
これはすさまじい影響力を持つに違いないと思った。
今後これを参照せずしてポップミュージックを語ることはできなくなるはずだ、とか。

が、実際には意外とそうでもなく、世間の反応はそれほど感じられなかった。
と言うよりも、(ロッキングオン社内ですら)ちゃんと理解されていないという感触が大きかった。

ポップ理論がいまいちわかりにくくなってしまったのは、渋谷にも責任がある。

当時、ポップ理論を支持する好例として、その頃破竹の勢いであったプリンスがいた。
音楽的に極めてラジカルでありながら、同時に圧倒的なポピュラリティをも獲得していく。
これぞまさにポップ理論をそのまま形にしたようなアーティストだ。

一方、当時はジャーニーやTOTO、フォリナー、スティクスといったような白人アメリカン・ロックがまだまだ元気な時代でもあった。
これらは従前、渋谷が仮想敵として「産業ロック」と命名し、さんざん批判してきたバンドである。

すると当然、ポップ理論を読んだ読者としては、「売れるバンドが正しいのなら、今までさんざんけなしてきたTOTOやジャーニーはどうなのか。あれこそ最も売れるバンドではないのか」と言いたくなる。
それに対する渋谷の回答はいささかわかりにくいもので、「いや、売れていればそれだけでよいかと言うと、そういうものではない。また、売れていないものが全てダメだと言っているわけでもない」といったような言い方をしていたと思う。

この言い方も、わからないではない。

渋谷が問題にしていたのは、あくまでもポップ・アーティストとしてのアティテュードの問題であって、ポップ理論で実際の現象面全てを単純に説明しようとしていたわけではない。
ポップ理論はあくまでも理念であって、各論レベルではそうすっきりいくわけではない。
つまり、「売れる」ということとどこまで真摯に向き合えるかが重要であって、その結果現実に売れた・売れないはまた別の要因も働くのであるから、そこは別だ、と。
安易な「売ってやろう」まで認めていくわけではなく、また、「売れなくてもいい、オレはオレのやりたいことをやる」といった独善的怠慢をも許さない、ポップミュージックにおける正義を提示するのがポップ理論の目的だったのだとは思う。
(TOTOやジャーニーを「安易な売れ線」としてそう簡単に断罪してよいのか、という問題も大いにあるけれども、それはとりあえず置いときます)

表現が外へ向かって開かれていること。
或いは、少なくともそれを志向していること。
それを構造的にアーティストに強いるのがポップミュージックの優れたところである、というのが渋谷の言いたかったことだと思う。

あらゆる芸術表現は、表現者において完結するわけではない。
表現する側と、それを受け止める側がいて初めて成立するのが「表現」である以上、誰にも見てもらえない絵、誰にも聴かれることのない音楽、誰も読まない文章は意味を持たない。
従って、表現する以上、「誰にも理解されなくてもよい」というのは、あらかじめのエクスキューズであり敗北宣言であり、すでにそこには表現者としての自己矛盾がある。
それはエゴ以外の何物でもない。
そして、そうした矛盾を、ポップミュージックは構造的に無効化してしまうのである、と。

これはこれで全くの正論であるはずで、基本的に反論の余地はないと思う。

ポップ理論が各論レベルでわかりにくい展開をしてしまったのは、結局、ポップミュージックがいくら画期的な構造を持つ表現形式であるとはいえ、「音楽」である以上、旧来的な芸術表現の属性、「わからないヤツにはわからない」という特権性と、完全に無縁になることなどできるはずがないからだ。

つまり、ポップ理論は、総論として、または、理念としては問題なく正しいはずなのだけれども、それを各論へ落とし込むところで渋谷陽一はうまくやりきれなかった。

おそらく渋谷が強調したかったのは、ビートルズやジミヘンやツェッペリン、EW&F、プリンス……といったような、革新的でエポックメイキングでありながら、なおかつ圧倒的に「売れる」アーティスト達が次々に現れてシーンを牽引していくというポップミュージックのダイナミックな構造それ自体である。

いくらジャズが音楽として優れていても、たかだか数千枚レベルのセールスの世界では話にならんでしょ。
純文学なんてもう表現として終わってるでしょ。優秀な才能は全てマンガや映画に流出して、質の上でもセールスの上でも完全に負けてるでしょ……。
そこまではっきりとは言わなかったと思うけれども、実際、渋谷陽一は当時それに近いところまでは言っていたように思う。

ポップはジャズやクラシックのように聴き手の資質や修練を要求することなく、しかしかと言って大衆に迎合し音楽的に陳腐化して退行していくわけでもなく、むしろより一層ラジカルに、停滞することなく進化を続けていく(「ロックミュージック進化論」!)、そういうダイナミックな表現である。
渋谷陽一がいちばん言いたかったのはそういうことだろう。
そしてそれは、ポップが一部の愛好家の間だけでなく、誰にでも開かれた表現であるからこそ生じるダイナミズムなのだ、と。

ミュージック・マガジンやレコード・コレクターズのような批評スタイルは、愛好家として、ポップ村の一員として、そこに加わることができれば、それは確かに楽しい。
別に誰に文句を言われる筋合いもない。
ただし、それだと、ポップミュージックは、クラシック・マニアと同じ、模型飛行機マニアとも同じ、そういう閉じられたムラ社会の中へと押し込められてしまう。
ポップミュージックの醍醐味は、常に一般大多数のリスナーの目にさらされることでそうしたムラ化を回避し、なおかつ表現としてどんどんラジカルに進化していくところにあるのであって、それこそがポップの正義なのだ……。

おそらく、それはすごく正しい。

しかし、である。

例えばジャズがいくらその全盛期をとうに終え、一般にはわかりにくい、従って表現としてスケールの小さい、閉じられたムラ社会の「趣味」になりつつあるとは言え、一方で、そこに「わかるヤツにはわかる」世界の歴史が綿々と続いていることには変わりはない。
そして、そうした場で醸成される「わかるヤツにはわかる」特権的な技術や芸術性というのも、結局は巡り巡って何らかの形でポップミュージックの技術として還元されていくことだってあるはずである。

ポップ理論はそこの問題をうまく扱えない。

一般の素人に理解できようができまいが、音楽には、特権的な才覚に恵まれた者が、修練と探究を重ねることでしか到達できない高い場所、「わかるヤツにはわかる」世界があるのは紛れもない事実だ。
それは、「わかる」者にとっては、むしろ価値を見いだせる唯一の場所であり、そこにしか音楽の真実はないという言い方だってできるだろう。
ポップ理論は、それさえをも「無意味なもの」として批判できるだけの根拠までは持たない。
言い換えれば、ポップ理論は、ポップミュージックの優れた点は大いに主張できるが、返す刀でジャズやクラシックをばっさり切り捨ててしまうほどの切れ味はないはずだ。
更に言うと、ポップ理論は、「売れる」アーティストの優秀さを支える論理にはなるが、「売れない」アーティストを批判する根拠にはなりにくい。

長々と書いてきたわりには凡庸な結論になってしまいそうだけれども、当然ながら、結局、ポップミュージックとクラシックは、どちらが偉いという話ではないし、売れるアーティストにも売れないアーティストにも、それぞれ優れた点はあってよいわけである。

クラシックやジャズのような「わかるヤツにしかわからない」音楽の到達は、後に一般にも共有されていくようになる可能性だってある。
時間をかければ、それは「ポップ」にもなり得る。

ポップ理論は、全くの正論ではあるけれども、各論として展開するには非常にデリケートで扱いにくいものなのだ。
渋谷陽一はその辺のことを考えていたからこそ各論の段階で曖昧な物言いをしたのか、それとも本気でジャズや純文学といったようにとうの昔に一般的マジョリティを巻き込むようなダイナミズムを失いムラ化の進んだ表現はもはや滅びてよいと考えていたのか……。

ただ、確かに現実は、ポップ理論が示唆する方向へと確実に進んでいるようにも思う。

変なたとえかもしれないけれども、オーディオで言うならば、例えば日本で3人しか買う人がいなくても、1本500万円するスピーカーを作る技術はメーカーにとって重要である。
500万円のスピーカーをきっちり作る技術力は、1本1万円のスピーカーを作るにおいても欠かせないはずだからだ。
しかし、現実には、500万円のスピーカーがちゃんと作られるようなタイプの技術が徐々に失われ、世間では、「わかるヤツにはわかる」ハイファイの世界の存在すら知られず、当然それに対するリスペクトもないままにローファイのみが蔓延しているように思われる。

ジャズやクラシックのリスナーばかりがハイファイ文化を何とか維持しようとし、一般的なポップミュージックのリスナーは、何のこだわりもなく iPod に付属の超ローファイ・イヤホンで平気で音楽を聴いている。これは象徴的な構図だと思う。(80年代には、ロックや歌謡曲のファンでさえハイファイにこだわったのに)

ポップ理論は、ローファイの中に潜むラジカリズムを支え、偽ハイファイやハイファイ気取りの欺瞞を吊し上げるには、極めて優れたロジックを提供してくれる。
しかし、「わかるヤツにしかわからない」本物のハイファイまで切り捨ててしまおうとすると、そこにはどうしても矛盾が生じてしまうのではないかと思う。

売れたものは例外なく全部正義です。売れないものは全て滅びてよいものです……
そうしたポピュリズムに徹する覚悟であるならば、ポップ理論は万能である。
しかしそれは、「売れてないけど、この人はいいよな」とか「このよさは素人にはわかりにくいかもしれないけど……」とかを全て切り捨てるということになる。
渋谷陽一は、結局そこまで切り捨てることはできなかったのである。

ポップ理論は、お高くとまったクラシックやジャズのリスナーに「ポップミュージックなんて……」と鼻で笑われたときに、ポップを擁護する反論のロジックとしてはものすごく有用である。
しかし、それをもって、「わかるヤツにしかわからない」ような、旧来的で、特権的な音楽を攻撃しようとするのは、使い方を間違っている。
その辺りで渋谷陽一は、とまどいながらも少し勇み足をしてしまった。
そういうことではないだろうかと思う。

(いったん終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年9月 »