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2011年5月14日 (土)

音楽を語ることの困難について(3)

「わからないヤツは仕方がない」という、許光俊のようなスタンスの取り方には、確かに爽快な潔さがある。
しかし、そのような思い切った割り切り方ができるのは、許がクラシックの批評家であるからということも大きい。
そもそも、「思い切った割り切り方」だというのも、我々のようなポップミュージックに親しんだ者から見るとそう見えるだけであって、当人にしてみればさほど思い切っているつもりもないのかもしれない。

クラシックやジャズは、聴き手を選ぶ音楽である。
万人が聴いて万人が理解できるものではない。
理解するには、ある程度の素質や素養と必要とする。

だから、有象無象が跳梁跋扈するポップミュージックの世界とはずいぶん異なり、クラシック批評の世界には、そもそもある程度の音楽リテラシーを備えた、あらかじめ選ばれたメンバーしかいない。
それはジャズの評論などでもわりと同様で、もともとある程度“聴ける”人しかいないから、どうしようもないようなトンデモ批評に遭遇することもあまりないし、それを読む側の音楽的リテラシーもある一定レベルをクリアしている場合がほとんどだろうと思う。
従って、クラシックやジャズにおいては、音楽に対して誠実であろうとすればするほど、その批評スタイルが許光俊のようになっていくのはむしろ自然であって、逆に言うと、力のある批評家ほどそうならざるを得ないのだろうというような気もする。

ところが、ポップミュージックの世界においては、そうはいかない。
極めて高い音楽リテラシーを備えた優秀な批評家が、どこまでも誠実に音楽を語ったとしても、それは下手をするとごく一部の同好の士にしか評価されないこともある。
と言うか、実感としては、その可能性のほうが高い。
ポップミュージック批評の世界では、いかに真摯な批評も、「パンク以外の音楽はすべてゴミだ」とか「◯◯◯が着ていたシャツがカッコよかった!」とかいったレベルの批評(?)と同じ土俵に乗せられてしまう。

そしてさらに厄介なのは、実際ポップミュージックは、本来的に、商品として販売されているCDやDVDそのものが「作品」となる複製芸術であり、もっと言うなら、テレビやラジオ、雑誌等への露出自体も「表現」の一部であると見なすことができることだ。
と言うことは、「〇〇くんが着ていたシャツ、かっこいい!」というような、一見アホにしか見えないような批評(?)ですら、あながちポップ批評としては的ハズレでもない、ということだってあるわけである。
また、ポップミュージックには、大抵の場合「歌」があり、つまりは「言葉」がある。
「言葉」があるから「意味」もある。
そこには狭義の「文学性」だって発生する。
それはクラシックやジャズとは大きく異なるところである。
その「文学性」のみにフォーカスした批評もあり得ることになる。

ポップミュージックは、クラシックやジャズのように「音楽」として批評することももちろんできるが、同時に「文学」として、「思想」として批評することもできれば、ファッションや、アーティストの言動そのものが「表現」となっていることもある。
そうした中で、「わかるヤツだけついてこい」という批評をやっていたのでは、結局、ポップミュージックの全体を捉えてはいないと言われても仕方が無いのかもしれない。
ポップミュージックとは、ポピュラーなミュージックなのであって、そこにはその「商品」としての優秀さがあらかじめ第一義的に含まれてしまっているからだ。

だから、ポップミュージックの批評に対しては、誠実であろうとすればするほど、むしろ音楽への集中をさまたげるノイズが増えるはずである。
耳のいい、知識も経験もある優秀な聞き手が、ポップミュージックを純粋に「音楽」として批評すれば、それはもちろんそれなりのものになる。
そこには一定のニーズもあるのだし、それで割りきってしまうのもひとつではある。

しかし、ポップミュージックという20世紀型の表現形態に意識的であればあるほど、本当にそれだけでいいのかという疑念を抱かずにはいられない。
ポップミュージック全体を包括的に批評してしまいたいという野望にとりつかれてしまったら、そこには従来の音楽批評とは全く別の価値軸を導入しなければならない。
そして、それは並大抵のことではないはずだ。

多様なレベルの、多様な階層の聴き手が、多様な角度から受容しているポップミュージックという実態のない化け物を、ひとつの理路でもってときほぐすなんていう荒技が、そもそも可能なのか。

神聖かまってちゃん?
あんなものは、自分から見れば、到底まだまだ他人様に見せるレベルにすら達していないとしか思えない。
にもかかわらず、実際には大きな支持を得てしまう。
この事実を、自分の中でどう咀嚼していけばいいのか。
「わかるヤツだけ相手にしよう」「気の合う者どうしだけで語り合おう」では、後味が悪すぎるのだ。

渋谷陽一は、こうした途方も無い問題に正面から取り組んでそれなりの解を出そうとした、唯一の批評家ではないかと思う。

(つづく)

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