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2011年3月11日 (金)

音楽を語ることの困難について(1)

(えー、気がつけば2ヶ月半ぶりでした。引越をしまして、そのバタバタでブログのことなどすっかり忘れてましたが、思い出したので、前回エントリーの続きを頑張ります。)

音楽評論には固有の難しさがある。
それは主に、音楽という芸術形式が持つ高い抽象性から生じる問題であると思う。

たとえば文学は言語による芸術であって、言語というのは「意味」そのものであるからして、宿命的に意味性から逃れることはできない。
また、絵画においても、たとえばひまわりを描けば、そこには「ひまわり」という「意味」が否応なしに発生する。抽象画なら直接的に表象する意味はないかもしれないけれども、具象表現を避けることであえて「意味」から逃れようとしている点において、かえって意味性が増したりもする。
しかし、音には、ハナから「意味」がない。ドレミファソラシドは徹頭徹尾、意味から自由だ。

だから、文学や美術においては、「わかる」「わからない」という受け手側のリテラシーの問題が自ずと前面化しやすい。
中学生に埴谷雄高を読ませても「わからない」と言うしかないし、素養のない者がマチスの抽象画を見ても、「こんなのオレだって描けそう」とか「どこが名画なのかわからない」ということにしかならない。

音楽だって、基本的には同じはずではある。
現代音楽やフリージャズといったような一部の極端な例を挙げれば、音楽のリテラシーの問題は容易に浮上する。
素養のない一般人と専門家のリテラシーの隔たりは、音楽においては、もしかすると文学や美術以上に距離のあるものかもしれない。

しかし現実には、音楽のリテラシー格差は、容易には可視化してくれない。
と言うか、正確に言うと、音楽のリテラシー格差は、上位の側からはかなりの程度意識されるのだけれども、下位の者には全く見えないか、見えたとしても茫漠としたものにしか意識されない。

たとえば、「吾輩は猫である」なら中学生でも楽しく読めるかもしれないが、中学生の読む「猫」と江藤淳の読む「猫」は、その読みがまるで違うだろう。
ダ・ビンチやフェルメールやカラバッジョの絵ならそこいらのおばちゃんでも「素敵ねえ」くらいの感想は持つだろうけれども、おばちゃんに見えているモナリザと高階秀爾に見えているモナリザはたぶんまるで別のものである。
音楽だって実は同じで、同じようにPerfumeを聴いて喜んでいても、専門家が聴くPerfume と素人の中学生が聴くPerfumeでは、その聴こえ方が全く違っているはずだ。

問題は、その格差が音楽においては極めて前面化しにくいということだ。

「猫」を“深く”理解している専門家は、表面的にしか読めていない中学生に対して、その文学的本質を「解説」することで、リテラシーのヒエラルキーにおいて自身がはるか上位に位置していることを比較的容易に知らしめることができるだろうし、中学生は中学生でおのれの未熟さを思い知ることができるだろう。
ダ・ビンチの本当の価値を知る専門家は、おばちゃんにその芸術性を「説明」してやることができるはずだ。
それは、有り体に言ってしまえば、文学や美術は、音楽に比べてずっと意味性が高いからである。意味なら、解説も説明もできるからである。
だから、文学作品や美術作品の批評は、主にヒエラルキー上位者の中でのみ行われるのであって、逆に言うと、「素人」の入り込む余地がない。

ところが、音楽においては、事情がずいぶん異なる。
Perfume が大好きな一般の中学生は、十分自足的にPerfumeが大好きなのであって、それについてつべこべ他人から言われる必要は何もないと思っている。
自分は本当はこの音楽を100%理解していないのではないかなどと考えることはないだろうし、また事実その必要もない。
実際、Perfumeには専門家をも感心させる程度の音楽性があると思うが、かと言って、専門家が中学生に、いや、君は本当は全然わかっていないんだよ、なんて言ったら殴られるかもしれない。

専門の批評家が理屈をこね回してああでもないこうでもないといくら言い立てたところで、その(現実には大きな隔たりがあるはずの)リテラシーの格差は、なかなか目に見えることがない。
それは主として、音を「意味」で語ることが原理的にできないからではないか。

そこのところが、そもそも音楽を言葉で語るにおいて常につきまとう、もっとも基本的で、かつもっとも困難な問題であるように思う。

確かに文学だって、専門家が評価しようがしまいが、水嶋ヒロの小説は100万部売れるし、それを楽しく読んで誰に何の文句を言われる筋合いもないと誰もが思っているのは同じだろう。
そのこと自体は、否定も肯定も出来ることではない。
しかし、音楽批評の面倒なところは、水嶋ヒロレベルの小説を読むくらいのリテラシーしかない者が実際に批評家として成立したりしてしまうという現実、しかも、リテラシーの低い者ほど自身にその低さが自覚されにくいというややこしい現実があるところではないかと思う。
音楽評論での論争が、まったくかみ合うことのない不毛なものになりやすいのもそのせいだろう。

……と、以上が前置き。
ここからが本題のつもりなんだけれども、長くなったのでまた次回に続きます。

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コメント

ohh、、、続き楽しみにしています!

投稿: pat | 2011年3月11日 (金) 02時15分

http://www.youtube.com/watch?v=wpivhQYLv1c
この曲(この人もだけど)が結構好きなんだけど、ラジオのインタービューで、「NY is killing me って歌詞が暗いし、そんなに NY が嫌いなの?」ってヘタな質問されたこの本人が「そんなに字面どおりにこの曲を受け止めるんじゃなくて、この歌詞から感じられる情感を感じてほしいんだけど」ってすごくイヤそうに面倒臭そうに答えてた。私はその番組をすごくハラハラしながらずっと聴いてた!!期せずしてものすごくスリルのあるインタビューになってたんだよね~。

投稿: ショーエ | 2011年3月11日 (金) 07時24分

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