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2011年3月

2011年3月31日 (木)

音楽を語ることの困難について(2)

少なくとも主観的には、Aというバンドは、Bというバンドよりも歴然と優れているということがわかる。
技術においても、音楽性においても、その差ははっきりとしている。
しかし、にもかかわらず、AよりもBの方がよいと言う人が世の中には結構いたりする。
それは、「趣味の違い」などという問題ではなく(そういう場合もあるだろうけど)、音楽的なリテラシーの問題なのだということもわかる。
AよりもBの方が好きだなんて言うヤツは、音楽をまだよくわかっておらず、聞き手として未熟なだけだ……

というようなことが、長く音楽を聴いている人には、わりとよくあるのではないかと思う。

それで、場合によってはA対Bで論争が始まったりするのだけれども、Aが明らかにBよりも優れているということをいざ相手に納得させようと思うと、これが容易ではない。
音楽においては、AのBに対する優越性を「意味」で語ることがほぼ不可能だからだ。
それは結局、「わかるヤツにはわかるんだけど……」という「感覚」の話でしかなくなってしまう。
或いは、「ぼくみたいに長く音楽聞いてるとわかるんだけどね……」とか「キミにはまだわからないかもしれないけれども……」といったような、説教臭い物言いでしか語ることができない。

だから、穏健派としては、「ま、好みは人それぞれだから……」といった曖昧な言い方で衝突を避けて事態の収束を図るのだけれども、腹の中では、おまえは本当はわかってないよと互いが考えているという、後味の悪い決着にしかならない。

音楽評論というのは、常にこのような、ごく基本的でありながらも実は極めて本質的な、非常に厄介な問題を孕んでいる。
それはあまりに厄介なので、たいていの場合、気づかないフリをして前に進むしかない。
特に、ポップミュージックの評論においては、こうした問題を気にすら留めていない脳天気なもの、或いは、平然と「音楽にとても詳しい私が何も知らない皆さんに教えて差し上げましょう」といったスタンスで展開するものが大半であって、音楽を語ることの本質的な困難に意識的に対峙しようとしているものはまずお目にかかることがない。

だからこそ、クラシックの批評家である許光俊のRATIO での断定的な物言いは、非常に刺激的だった。

たとえばこういう言い方。

例えば文学だったら、あえて単純化すると、言葉というのは少なくとも書いてあるのはだれが読んでもはっきりしていて、それについては論争の余地がないんですよね。「彼は部屋を飛び出した」と書かれていたら、誰が読んでも彼は飛び出したんです。だけど音楽については、例えば「悲しい旋律だね」と僕が言っても、悲しいと思わない人も結構いたりするわけです。……そういう人とは本来、話は成り立たない。

これはつまり、音楽の持つ高純度の抽象性の問題についての言及だけれども、注目すべきはこの最後の一言。
「そういう人とは本来、話は成り立たない。」
はい、終わり。
AよりもBのがいい、なんちゅうヤツとは「話は成り立たない」。

もちろんこの人は、傲慢・不遜なわけではなく、音楽を語ることの難しさを熟考した上で、こうした断定的な態度に辿り着いているのだ。
それは、以下のような発言からも明らかである。

(「いい演奏」と評価するとき)「これがわからないやつはバカだよ」という含みが全然なくはない。これは、たぶん評論を書いているあらゆる人間が持つ一種の傲慢、もしかしたら立脚点かもしれない。他者が読むことを期待して書かれる評論は、対象自体を判定していると同時に、読者を断罪しているという構造があると思います。

いい演奏というのは、実は相当に政治的な言葉ではないかということです。もっと言うと、権力的な言葉なのかもしれません。評論家が読者に対していい演奏と言った場合には、最近は露骨に上から目線だと嫌われると思って偽装する人もいるかもしれませんけれど、基本的には上から下へ有益な情報を与えてやるというのがあるでしょう。言い換えると、持てる者が持てない者のために贈与するわけです。

このように許光俊は、「持てる者から持てない者への贈与である」という音楽評論の政治性を前提とした上で、わからないヤツとは「話が成り立たない」とする。
爽快だ。
実に潔い。

許は、さらに「演奏家には初級者向けと上級者向けがある」なんちゅう、時と場合によってはほとんど禁句とも思えるようなさらに突っ込んだ言い方までしている。
うーん、すごい。
はっきり言うなあ。
誰もが言いたい、しかし、よほどの経験と自信がないと言えない言い方だろう。

引用します。

美的なものは何でもそうですが、初心者が好きなものから、だんだん進んでくるとそれじゃ物足りなくて別のものが好きになって、さらにその先には……となるじゃないですか。……たしかにいろんなニーズがあるし、いろんな指揮者や音楽家のレベルもありますから、好きな音楽を聴いて喜んでいれば、それはそれで幸せとも言えるのですけどね。
 美的経験を積んで、でも積んでも感覚が洗練されていかない人っているじゃないですか。そういう人はもう気の毒だけど、しょうがない。この繊細な味がわからなくてかわいそうだなあと思うのは事実。

(片山)初級者、中級者、上級者の分類について、もう少し。
(許)その言い方は、日本の音楽評論家はあまりしませんよね。だけど僕はもっと積極的に使おうと思っているんです。だって本当にそうなんだから。食事もそうじゃないですか。だれが飲んでも文句が出ない千五百円のワインがあるとしても、いいものをいっぱい飲むとそれでは物足りなくなる。でも、いくら飲んでもわかるようにならない人もいる。いいもののよさは、誰にでもわかるものではないですよ。

文学の世界で言うなら、ただのドキドキを売り物にした単純なスリラー作家と、ドストエフスキーを同じような偉さだと言うことは、よほど偽悪的にふるまおうとするのでもなければ、ないでしょう。カラヤンは大衆小説と似ています。

……こうした言い方は、リテラシーの高い聴き手にとっては、非常によくわかるものだろうと思う。
そして、こうした発言(「いいもののよさは、誰にでもわかるものではないですよ」!!!)が、「これがわからないやつはバカだよ」という無自覚な傲慢のままに垂れ流されるでのはなく、音楽評論の持つ「対象自体を判定していると同時に、読者を断罪しているという構造」や、「上から下への情報の贈与」という政治性を自覚した上で、それなりの覚悟を持ってなされるのであれば、それは十分に説得力を持つし、またとても重要なことでもあると思えてくる。

いくらいいワイン飲ませ続けても、いつになってもわからないヤツ…………いるよなあ。
美的経験を積んでも感覚が洗練されていかないヤツ…………いるよなあ。

それは、少なくともパブリックな場面においてはものすごく言いにくいけれども、同時に多くの人が心の中では深く納得することでもあると思う。
そして、こうしたことを普通我々が言いにくいのは、「そんなこと言ってる自分はほんとのほんとに“わかっている”のか」「おれの感性はそんな偉そうなこと言えるほど“洗練”されているのか」という疑念から逃れきることが出来ないからだろう。

しかし、特に初心者などからしてみれば、こうした「わかっている人」から情報の贈与を受けたい、自分が音楽を聴いていく上でのガイドラインがほしい、という需要は実は相当に大きいわけだし、また、そうした「解説」があるからこそ耳が育つ、美的感覚が洗練されていくということは確実にあることである。
例えばぼくはクラシックについてはほぼ門外漢だし、そんな深い森に立ち入ろうとするつもりもあまりないけれども、もし仮にこれからクラシックを聴いていこうと思ったなら、許光俊のような批評家は、そのガイドラインとしてものすごくありがたいだろうと思う。

ワインを飲むときに、ただ漠然と飲んでいるのと、詳しい人に「このワインの特徴は……」と解説をしてもらいながら飲んでいるのとでは、まるで違う。
美的感覚というのは、そうやって言葉による理解の補助を得ながら経験を積むことで、少しずつ洗練されていくものだと思うからだ。

ジャズを聴くようになった頃、優秀な批評家の解説はものすごく参考になった。
○曲目のインタープレイにおける○○のソロはこれこれこのような点で非常に素晴らしい……といったような具体的な解説を読むことで、なるほどそのように聴くものなのかと合点がいき、そうした経験を重ねることで、自分なりの聴き方が醸成され、また自分の好みや傾向も客観的に把握できるようになっていく。

それはワインでも文学でも音楽でも、結局は同じことだと思う。
ただ、何度も繰り返してきたように、音楽においてそこを言葉で語ることは、非常に困難な手続きを必要とする。

その困難さを十分に自覚した上で、「初級者向けと上級者向けがある」、と天下に向かって公然と発言するのは、批評家として一つの優れたスタンスだと思う。
「いいもののよさは誰にでもわかるものではない」という一刀両断の切り捨て。
言いにくいことだけど、そこは曖昧にぼやかしといてもしょうがないでしょ、っていうこの潔い断定の痛快さ。
そこまで出来る人はなかなかいない。
目から鱗が落ちる思いだった。

ただ、もちろんそれが全てではない。
これだけでは、「音楽のことは何もわかっていないけれどもとりあえず Perfume は大好きだしそれで何も不自由はないし、それ以上のことは何も望んでいない」という中学生は、単に置き去りにされてしまう。
許光俊のスタンスは、とどのつまり「キミとは話が成り立たない」「わかるようになってから来い」「ついてこられる者だけついて来なさい」ということだからだ。
とりあえずPerfume 好きです、別にこれより難しいものを聴くつもりもありません、美的感覚? 低くて結構。……そう言われてしまえば、もう接点は何もない。

音楽評論には、こういった姿勢と対立する様々な考え方もある。

次回は別の立ち位置から同じ問題を考えます。
(つづく)

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2011年3月11日 (金)

音楽を語ることの困難について(1)

(えー、気がつけば2ヶ月半ぶりでした。引越をしまして、そのバタバタでブログのことなどすっかり忘れてましたが、思い出したので、前回エントリーの続きを頑張ります。)

音楽評論には固有の難しさがある。
それは主に、音楽という芸術形式が持つ高い抽象性から生じる問題であると思う。

たとえば文学は言語による芸術であって、言語というのは「意味」そのものであるからして、宿命的に意味性から逃れることはできない。
また、絵画においても、たとえばひまわりを描けば、そこには「ひまわり」という「意味」が否応なしに発生する。抽象画なら直接的に表象する意味はないかもしれないけれども、具象表現を避けることであえて「意味」から逃れようとしている点において、かえって意味性が増したりもする。
しかし、音には、ハナから「意味」がない。ドレミファソラシドは徹頭徹尾、意味から自由だ。

だから、文学や美術においては、「わかる」「わからない」という受け手側のリテラシーの問題が自ずと前面化しやすい。
中学生に埴谷雄高を読ませても「わからない」と言うしかないし、素養のない者がマチスの抽象画を見ても、「こんなのオレだって描けそう」とか「どこが名画なのかわからない」ということにしかならない。

音楽だって、基本的には同じはずではある。
現代音楽やフリージャズといったような一部の極端な例を挙げれば、音楽のリテラシーの問題は容易に浮上する。
素養のない一般人と専門家のリテラシーの隔たりは、音楽においては、もしかすると文学や美術以上に距離のあるものかもしれない。

しかし現実には、音楽のリテラシー格差は、容易には可視化してくれない。
と言うか、正確に言うと、音楽のリテラシー格差は、上位の側からはかなりの程度意識されるのだけれども、下位の者には全く見えないか、見えたとしても茫漠としたものにしか意識されない。

たとえば、「吾輩は猫である」なら中学生でも楽しく読めるかもしれないが、中学生の読む「猫」と江藤淳の読む「猫」は、その読みがまるで違うだろう。
ダ・ビンチやフェルメールやカラバッジョの絵ならそこいらのおばちゃんでも「素敵ねえ」くらいの感想は持つだろうけれども、おばちゃんに見えているモナリザと高階秀爾に見えているモナリザはたぶんまるで別のものである。
音楽だって実は同じで、同じようにPerfumeを聴いて喜んでいても、専門家が聴くPerfume と素人の中学生が聴くPerfumeでは、その聴こえ方が全く違っているはずだ。

問題は、その格差が音楽においては極めて前面化しにくいということだ。

「猫」を“深く”理解している専門家は、表面的にしか読めていない中学生に対して、その文学的本質を「解説」することで、リテラシーのヒエラルキーにおいて自身がはるか上位に位置していることを比較的容易に知らしめることができるだろうし、中学生は中学生でおのれの未熟さを思い知ることができるだろう。
ダ・ビンチの本当の価値を知る専門家は、おばちゃんにその芸術性を「説明」してやることができるはずだ。
それは、有り体に言ってしまえば、文学や美術は、音楽に比べてずっと意味性が高いからである。意味なら、解説も説明もできるからである。
だから、文学作品や美術作品の批評は、主にヒエラルキー上位者の中でのみ行われるのであって、逆に言うと、「素人」の入り込む余地がない。

ところが、音楽においては、事情がずいぶん異なる。
Perfume が大好きな一般の中学生は、十分自足的にPerfumeが大好きなのであって、それについてつべこべ他人から言われる必要は何もないと思っている。
自分は本当はこの音楽を100%理解していないのではないかなどと考えることはないだろうし、また事実その必要もない。
実際、Perfumeには専門家をも感心させる程度の音楽性があると思うが、かと言って、専門家が中学生に、いや、君は本当は全然わかっていないんだよ、なんて言ったら殴られるかもしれない。

専門の批評家が理屈をこね回してああでもないこうでもないといくら言い立てたところで、その(現実には大きな隔たりがあるはずの)リテラシーの格差は、なかなか目に見えることがない。
それは主として、音を「意味」で語ることが原理的にできないからではないか。

そこのところが、そもそも音楽を言葉で語るにおいて常につきまとう、もっとも基本的で、かつもっとも困難な問題であるように思う。

確かに文学だって、専門家が評価しようがしまいが、水嶋ヒロの小説は100万部売れるし、それを楽しく読んで誰に何の文句を言われる筋合いもないと誰もが思っているのは同じだろう。
そのこと自体は、否定も肯定も出来ることではない。
しかし、音楽批評の面倒なところは、水嶋ヒロレベルの小説を読むくらいのリテラシーしかない者が実際に批評家として成立したりしてしまうという現実、しかも、リテラシーの低い者ほど自身にその低さが自覚されにくいというややこしい現実があるところではないかと思う。
音楽評論での論争が、まったくかみ合うことのない不毛なものになりやすいのもそのせいだろう。

……と、以上が前置き。
ここからが本題のつもりなんだけれども、長くなったのでまた次回に続きます。

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