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2010年12月26日 (日)

講談社 RATIO スペシャル・イシュー『思想としての音楽』を読む

chinsan が送ってくれました。
とりあえずは読めとご指示いただいた巻頭の「菊地成孔vs片山杜秀」対談と、巻末の「許光俊vs片山杜秀」対談を読む。

めちゃくちゃ面白い。
特に巻末の許光俊と片山杜秀の対談「最高の演奏を求めて」は、読み始めたら止まらなくなるほど面白かった。
2人ともクラシックの批評家であって、したがって自分などはまるで門外漢であるにもかかわらず、だ。

あまりに面白くて、書いてみたいネタが満載なのだけれども、長大になりそうなので、今日はまず手始めに、巻頭の方の菊地成孔と片山杜秀の対談「ポップと退屈-退行の時代の批評」について感想を少し……。

そもそも菊地成孔という人は、ぼくは前からなんとなく虫が好かなくて、もともとあまりよいイメージを持っていない。
もっとも著作は1冊も読んでいないので無責任には違いないけれども、逆に言うと、ネットやら雑誌やらでちょこちょこ発言を拾い読みしただけでも、「なんとなく虫が好かない人だ」と思ってしまうからこそ読む気になれないとも言える。

今回の対談を読んだ感想も、「やっぱりなんとなく虫が好かない」、だった。

例えば菊地は、自分はロックとフォークに関しては不感症だ、みたいなことをよく言っているけれども、この対談の冒頭でもやはりその話から始まっていて、「ロックに対しては『差異化』の耳が働かない」というような言い方をしている。
(「差異化の耳が働かない」というのは、要するに、みんなほとんど同じに聞こえちゃう、というくらいの意味。)

曰く、
「……結局、中心が掴めないんだと思います。中心がなくては差異化もへったくれもないない訳ですよね。ビートルズは音楽的にもの凄すぎて、ロックなんだかなんだかわかりませんし、ロカビリーやエルビスは大好きですが、あれはジャズやR&Bの白人型変種にしか聴こえないから安心して大好きなんです。……」
「……その点モダンジャズははっきりしていて、チャーリー・パーカーがモダンジャズの中枢にあって、あとはその展開でというような近代史観がすごいはっきりしているんです。……」

これは、自分のような“ロック側”の人間からしてみれば奇妙な物言いで、そっくりそのまま逆だって言えそうな気がする。
つまり、
「チャーリー・パーカーは音楽的にもの凄すぎてジャズなんだかなんだかわかならいし、マイルスやハービー・ハンコックは大好きだけど、あれはソウルやファンクの亜種にしか聴こえないから安心して大好き。その点ロックなんかははっきりしていて、ビートルズがロックの中枢にあって、あとはその展開でというような近代史観がすごいはっきりしている……」
で何も問題ない気がするのだけれどもどうか。

まあ、確かに菊地は「ロック」という言葉をかなり狭義に使っているようではある。
ロックはダメだけど、ポップスは好きだ、と。
ストーンズでもニルヴァーナでも、1位になったものはポップスって言えるんだっていう方便は使う、と。

だから、言わんとしている感じはよくわかるのであって、特に、90年代あたりからは差異化の喜びが完全になくなった、なんていうくだりには、共感さえ覚える。

が、だとしたら、菊地が言わんとしていることは、ほとんど語る必要もないような些末なことであって、結果的にあまり意味がないとしか思えない。
て言うか、菊地は、「ロックを聴く醍醐味が掴めていない」とか「生理に合わないんだと思う」とかいうような、一見謙虚な言い方をしてはいるのだけれども、結果的に伝わってくるのは、“自分はもっと音楽的にレベルが上のものにしか反応しませんよ”的な、権威主義の匂いだけなのだ。
それならハナからわざわざロックやフォークの話なんかしなけりゃいいじゃないか、と言いたくなる。

そんじゃあこの対談の何が面白かったかと言うと、確かに菊地成孔はやっぱり虫が好かないんだけれども、それでもやはり問題提起としては、興味深い話題がたくさんでているからだ。
その「差異化の耳」の話から始まって、聴く側の音楽に対する「リテラシー」の問題、「音楽に解説は必要か」の問題、「ポップ・アナリーゼの可能性」(アナリーゼというのは、技術分析のこと。だと思います)について等々……。
なんだかんだ言って、ロックの批評は、こうしたクラシックやジャズの批評とは比較にもならないようなお粗末なものがほとんどであって、こうした問題に正面から向き合おうという姿勢自体は、それだけでも感心してしまう。

対談のサブタイトルでもある「退行の時代の批評」というのは、要するに、聴き手が経験や勉強を積み重ねることでどんどんリテラシーを高めていく……ということが起こりにくくなっている「退行」の時代において批評はどうあるべきか、といったような意味合いであると思う。
だとしたら、そうした問題提起をしている菊地自身が、同時に、その発言の端々から匂わせる権威主義の(ほんとは“スノビズムの”とも言いたい)香りによって、自ら反面教師になってしまってはいまいか。

文学や美術と同様、やはり音楽にも鑑賞者側のリテラシーの問題はつきまとう。
結局のところ、そこがいちばん難しいとさえ言える気がする。
ジャズやクラシックは、誰にでも「わかる」というものではない。
水嶋ヒロの小説を喜んで読んでいるおねえちゃんに、ドストエフスキーの研究者が何を語れるのか。
おねえちゃん、あんたわかってないよ、と言うことにどれほど意味があるのか。
いや、そもそも、「わかっている」専門家は、本当に「わかっていない」おねえちゃんよりも「正しい」のか。

……こうした問題も含め、音楽批評の困難な問題を、爽快なほどに次から次へとバッサバッサと片付けていくのが、巻末の許光俊という人。

次回はそっちについて、気力が出れば書きたいと思います。

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コメント

rikiさんが菊地成孔を好きになれないというのはとてもよく分かります。(笑)

菊地成孔が近田春夫の真似をして歌謡曲批評をした文章は退屈でしたけど、マイルスを語らせると最高に面白いですよ。
私は菊地からマイルスの聴き方を学んでいます。

投稿: 福井 | 2010年12月27日 (月) 16時42分

なるほど。
すごくいいとこあるのはわかるんだよね。マイルスだけ語ってくれてりゃいいのに。
余計なことばっかり言いたがるのは、あれはどういう勘違いなんだろうか。

投稿: riki | 2010年12月27日 (月) 23時23分

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