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2009年8月

2009年8月23日 (日)

CDと赤ちゃん

世の中の赤ちゃんは、大きく2つに分類することができる。
CDを投げる赤ちゃんと、投げない赤ちゃんだ。

うちの1人目の息子は、CDをよく投げる赤ちゃんだった。
伝い歩きができるくらいになると、CD棚につかまって仁王立ちし、1枚ずつ引っ張り出しては、次から次へと足元へ放り投げる。
その頃、息子の手の届く範囲内にあったCDは、ほとんどケースが割れたりヒビが入ったりした。

仕方がないので、最後にはCD棚を覆う赤ちゃんプルーフの囲いを段ボールで製作した。
これで防ぐことは出来たが、自分がCDを取り出すのに不便で仕方がなかった。

また、そのような状況だったので、これから赤ちゃんが生まれるという友人・知人がいると、CDをガードするのが大変になるぞ、などとよくアドバイスしたりしていた。

ところが、その後、全ての赤ちゃんがCDを投げるわけではないということが段々にわかってきた。
自分の経験を安易に一般化してはいけなかったのだ。
普通に棚に置いてあるけど全然平気です、というような意見の方がむしろ多い。

実際、次に生まれた娘は、CDを全く投げない赤ちゃんだった。
もはやCD棚を段ボールで囲う必要はなかった。
これは触らないでね、と言えば、すぐに理解することができた。
その代わり、娘は、ところ構わずシールを貼りまくる赤ちゃんであった。
独身の頃に思い切って買ったアンティークの文机までもがシールまみれになった。

さて、それから6年のインターバルをおいて我が家に誕生した2人目の娘。
どうやら、とてもよくCDを投げる赤ちゃんのようだ。
疳の強いところも、1人目とよく似ている。

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2009年8月21日 (金)

子供手当

子供が3人いる。
今年小5、小1と1歳。

民主党が政権を取ると、初年度である来年度は、子ども手当が月々26,000円×3人÷2=39,000円。1年で468,000円。
本格実施になる2011年度からは、月々78,000円で、年間936,000円(!)。
小5の長男が中3になる13年度まで3年間これが続く。
この時期はウハウハですな。

14年度からは2人分になって、月々52,000円、年間624,000円で、これが17年度まで4年間もらえる。また、長男の高校の学費も無料だ。
ここもまだまだウハウハ、かな。

その後18年度から23年度までの6年間は、月々26,000円、年間312,000円。
この間、真ん中の娘の高校の授業料は無料だけども、長男が大学に進学しているとしても、そちらは手当がない。
すると、ここは微妙。
長男が国公立大学に進学するというのはなんとなく想像しにくいので、都会の私立大を想定すると、むしろかなりきついに違いない。
特に、続いて真ん中の娘も大学に進学する21年度は相当きついと思われる。

うーむ。

そもそもこれから当面の5~6年、ちょっともらいすぎじゃない?(笑)
いや、完全1馬力で、乳幼児も抱えるために嫁がパートにも出られない我が家にとっては、これでやっと月々の工面に心を痛める生活が和らぎそうだけれども。
だから、我が家のことだけ考える分には、ありがたいんだけども。
でも、これ、現行の児童手当と同様、3期に分けて、4ヶ月分まとめて支給されるのよね。
30万とか一気にもらったら、間違った使い方するだろうな、おれは、絶対。

で、所得制限、ないんだよな。
年収2000万クラスのエリートサラリーマンでも、子供3人いたら、さらに100万上乗せでしょ。
大和総研の試算では1000万クラスの高所得層の手取りが大きく増えるっていうニュースがあったけど、確かに冷静に計算してみると、これでいいのかなあ、と。

おそらく、財源確保のために、我々公僕の給与は相当カットされると覚悟もせねばなるまい。
それに、扶養控除や配偶者控除の廃止も、多少は影響するはず。
すると、当面はまあよくても、子供たちが次々に大学に進学して、いちばん金の必要なときにいちばん困窮しそうだなあ。

ま、その頃まで民主党政権が続いているというのも想像しにくいけど。

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2009年8月20日 (木)

ST上昇

若い頃から心臓に自信がない。
そもそも心肺機能が弱くて、小学校の頃から長距離走が苦手だった。
中学校ではバスケをやってそれなりに訓練になっていたはずだけれども、高校でスポーツをしなかったのもよくなかったかもしれない。
若い頃の鍛錬は重要だと、いまになって思う。

20代初め頃には、既に徹夜がきつかった。
睡眠時間が短いと、翌日、胸がどきどきして仕方がない。
無理するとどうにかなってしまうんではないかという気がする。

コーヒーを飲むと、やはりどきどきしてくることが多い。
飲みながらタバコ吸ったりすると、急に身体が冷えるのが実感できる。

キューピーコーワゴールドとかアリナミンAとかの栄養剤みたいなのもあまり合わない。
やっぱり心臓がどきどきしてくる。
学生の頃は、そういう錠剤を通常の倍の量服用して徹夜する、というようなことをときどきやったけれども、確実にどきどきした。

職場での定期健康診断では、1年目から心電図でひっかかった。
最初のうちは、「不完全右脚ブロック」というのがよく出て、「要経過観察」と書かれた。
説明を求めると、別に何の異常もなくてもよく出る所見なので気にすることはないだろうとのことだったので、さほど気にしてなかった。
だいたい毎年この「不完全右脚ブロック」が出るのだけれども、「異常なし」の年もあった。

30代に入ってからだと思うのだけれども、今度は「右軸偏位」という所見で「要指導」と書かれるようになった。
が、これもよくある所見とのことだし、異常なしの年もあるので、特に気に留めていない。

ところが今年は、初めて「ST上昇」という所見が出て、しかも判定は「要精密検査」を通り越していきなり「要医療」と来た。
もともと心臓には自信がないところへ、「要医療」というのはショックが大きい。
この判定を見ただけで心臓がどうにかなりそうな気がする。

毎年気にしていたのは、心電図ではなくて尿酸値だ。
例年、7.2~7.6くらいの間をうろうろしていて、ここ数年はずっと「要指導」になっていた。
それが今年は、日々の自転車通勤が奏功したか、ついに基準値内の6.8を達成した。
去年引っかかっていたLDLコレステロールも基準値内に戻っている。
飲酒量は以前よりもむしろ増えているし、タバコもやめていないけれども、肝機能も脂質も完全に基準値におさまっている。
心電図の「要医療」には、これらの好結果を台無しにして余りあるインパクトがある。

そもそも「ST上昇」とは何か。
すぐにネットで調べてみたが、どれも専門的すぎていまいちよくわからない。
心筋梗塞とか狭心症とか、恐ろしいことばかりが書いてある。
そう言われれば、ここ半年か1年くらいの間に、夜中、動悸で目が覚めたことが2~3回あった。
不意に目が覚めると、なんだか無性に心臓がどきどきしている。
すぐにおさまるのだけれども、いやーな感じだった。
不整脈みたいなのも、ときどきある。
激しい運動をしているわけでもないのに、ドックンと強い脈が1発来て、その前後に一瞬脈が飛ぶ。
それだけのことなので、特に気にしていなかったのだけれども、STが上昇しているとなると、今更ながら気持ちが悪い。
うーん、何だよ、STって。
下降してるのも嫌だけど、上昇もしてもらいたくない。

だいたい、うちの親父の家系は心臓が弱い。
ばあちゃんは、ある朝、突然発作を起こして、布団で突っ伏して死んでいた。
親父がちょっと歩いただけですぐにしんどいと言って休むのも、心臓が弱いからだろう。
おれのSTが上昇するのは、その血を受け継いでいるからに違いない。

そういうわけなので、早速今日は午前中休みを取って(精密検査は特別休暇が取れる)病院へ。
心電図をまたとりなおしてからエコー検査を受け、診察に進む。
心電図のとき、看護師が「うーん、確かにそんな感じかも……」と、やはりSTが上昇しているらしき発言をもらす。
ということは、やっぱりたまたま健診のときの測定が変だったというわけでもないらしい。
どきどきしながら診察室へ入る。
心臓に悪い。

が、結果的に医者はえらく軽いノリであった。
「ま、大丈夫でしょ。心電図の結果の異常と心臓の異常は別だからねー。はははー」てなもんであった。
要するに、原因はわからないけれども、特に異常がなくても「ST上昇」と判定される人は間々いる、ということらしい。

たぶん大丈夫だろうけど動悸もちょっとあるみたいだから、一応ホルター心電図検査もやりましょうとのことで、24時間心電図を記録し続ける機器を身体に貼り付けられた。
いま、電極4個と万歩計くらいのサイズの心電計をぶら下げてます。
これ、そう言えばうちの親父も何度かやらされてたわ。

とりあえずはひと安心だけれども、24時間風呂に入れないのはつらい。
電極と心電計は付け心地が悪く、仕事に身が入らない。
それに、今日の診察だけで、8千円以上かかった。
このホルター検査にもさらにまたかかるはずだ。

これ、来年もSTが上昇してたら、また同じように再検査させられるんだろうか。
今度はそっちの方が気になってきた。

健康診断は結果的にあまり心臓によくないのではないかと思う。

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2009年8月 5日 (水)

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節 を読む

我々が歴史を記述しようとするとき、現在の価値基準に左右されることなく、史実に対して真に客観的であることはほぼ不可能である。
特に近代の歴史学は、政治史や制度史が中心であり、中央の歴史学であって、従ってそれは必然的に発達史となる。
現在の価値基準に包まれている我々から見れば、例えば江戸時代は、経済的にも、科学・技術的にも、人権意識においても、現代よりも「遅れた」「未開の」時代であったには違いない。
しかしそれは、現代の価値にからめ取られた我々に固有の、ごく一面的な判断でしかない。
実際のところ、江戸時代の村民が、どのような意識で、どのような精神世界を持って生きていたのか、本当のところは結局わからない。
少なくとも、「電気もガスも水道もないから不便だなあ」などとは思っていなかったことは確かだろう。
もしかすると、江戸時代に生まれた方が、精神的にはずっと豊かで幸せだったかもしれない。

1965年を境に、キツネにばかされるという話が日本中から消える。
キツネにばかされるはずがない、昔の人はそんな迷妄の中に生きていたのだ、というのは、現在の価値基準に束縛された、偏狭な見方でしかない。
むしろ、我々の方が、キツネにだまされるという意識の在り方、キツネにだまされることもあるという自然観や世界観を喪失してしまっている、という見方もあってしかるべきだ。

キツネにだまされなくなった、という事実は、確かに「発達」でもあるのかもしれないが、同時に「後退」でもある。
いや、歴史というのは現実には複合的なものであって、そもそも発達も後退も何もないのだろう。
アメリカ合衆国の建国と発展も、ネイティブ・アメリカンにとってみれば破滅の歴史でしかない筈だ。

では、現代の我々には理解不能になってしまった、かつてキツネにだまされていた人々を包んでいた世界というのは、いったいどのような世界だったのか。
そうした問題を捉えてみようとするのが、歴史学ではなくて、歴史哲学である。


……とまあ、ごくごく大雑把に言うとだいたいそのようなことが書かれている。
とてもいい本だった。
色んな本を読む前の、基本的な教養書として、若いうちに読んでおくのがいいと思う。

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