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2008年5月26日 (月)

吉本隆明『「反核」異論』を読む

少し前の「SIGHT」の連載インタビューで吉本隆明が83年の著作『「反核」異論』についてしゃべっているのを読んで、この本をもう一度読みたくなった。
うんと若い頃に一度は読んでいるはずで、そのいつになく激しい語り口については何となく覚えているような気もするのだけれども、具体的な内容は何も思い出せない。
おそらく当時は読んでもよく理解できなかったのだと思う。
今読むとおもしろいかもしれない。

ところが、この本、絶版になっているらしく、オンライン書店を検索しても出てこない。
アマゾンでは中古に2000円とか4000円とかの値がついている。
仕方がないので図書館へ行ってみたら、89年の新装版が書庫にあるというので、出してきてもらって借りることにした。

読んでみると、やはりこれがめちゃくちゃに面白い。
80年代頃の吉本の著作はまだまだやたらと難解で、自分としてはなかなか完読するのが難しいのだけれども、この本は比較的わかりやすく、割とすらすら読める。
それでも前に手に取った高校生の頃だか大学生の頃だかにはわからなかったのか、何もかも初めて読むような気がする。
だから、余計におもしろい。

この「反核」論争で吉本隆明は、当時の文壇や論壇から集中砲火を浴び、ほとんど孤立無援の状態となった。
それでもこの本を読むと、どう見ても正論を述べているのは吉本の方であって、そもそも当時吉本を攻撃していた人々は、吉本の論理をてんで理解していなかったらしいことがうかがわれる。
そして、吉本が本書で主張していることはいまだに有効であって、むしろ、今こそ再度耳を傾けるべき内容であるように思う。
こういう本を入手困難な状態にしておいてはいけない。

事の成り行きは以下のとおり。

81年に中野孝次らが中心となって文学者の反核声明を発表した。
結果的にこの声明は、500人以上の文学者の賛同署名を集め、2千万人の署名運動に進展し、また翌年の5月には三十五万人が集会に参加した。
この反核運動に、吉本が異を唱える。

吉本の論理は明快である。
中野孝次による反核声明は、アメリカのレーガン政権によるヨーロッパ核配備だけを一方的に問題視し、当時のソ連についてはうやむやに敢えて言及していない。この時期、ソ連は非核戦力によってポーランドの「連帯」を弾圧しており、結果的に、西ドイツの文学者たちに端を発するこのときの反核運動は、この「連帯」弾圧の隠れ蓑となっている。明らかにソ連製と言ってよい、党派性の強い動きである。……というのがまずひとつ。
当時、核戦争をおっ始めることができるのはアメリカとソ連だけなのだから、反核運動というのであれば、それは、名指しでアメリカとソ連を批判することでしか、運動としては成立し得ない。しかるに中野らの声明は、アメリカのやり方が一方的に問題であるかのような偏った情況認識に立った上で、「核戦争が起これば地球が全滅する」などというSF的な妄想で不安を煽るばかりの、全く意味のない内容になっている。……というのが結論。
従って、賛同したくてもしようがない、ということだ。

それは、吉本が最初にこの問題に言及した、「マス・イメージ論」の中の「停滞論」で、はっきりと語られている。
「停滞論」は、当時ベストセラーになっていた黒柳徹子「窓際のトットちゃん」と、この中野孝次らの反核声明を、2つまとめて批判した痛快な文章だ。
現在では再現することなどできようもない「トットちゃん」の育った教育環境を理想のように語る黒柳徹子の小説も、現実には運動として成立し得ない妄想のような反核理念も、一見正義を語っているようではあるが、実際にはいずれも現在の情況から安易に目をそむけているだけの、倫理的退廃でしかない、と吉本は一蹴している。(んだと思う)
特に気持ちいい箇所を引用してみます。

“これが「ひとたび核戦争が起これば」「全世界を破滅せしめるにいたること」はあきらかだから「人類の生存のために」「すべての国家、人種、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめざし」て「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に署名をして欲しいという、中野孝次らの情勢認識である。もちろんわたしは、かれらにむかって、君たちは「人類」としてそんなに「生存」が心配なのかとか、君たちは誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義を独占した言語にかくれて、そんなにいい子になりたいのかと半畳を入れたいのだ。そして誰からも非難されることもない場所で「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせることが、倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもないことを明言しておきたい。”

また、別の箇所で、同様のことをさらにわかりやすく以下のようにも言っている。

(三浦雅士との対談で)
“核戦争が一度起こると地球上の全生物を何度でも絶滅できる力を持っているんだとか、それは地球最後の戦争になるみたいなことを言っている。だから反対するんだと、そう言っているのね。だけど、全生物を何回でも殺せるようなものが始まったら、反対もヘチマもない。全部死んじゃうんだから、おまえも死んじゃえばいいじゃないかと言ってるのと同じじゃないですか。つまり、そんなのはニヒリズムじゃないですか。反対する意味がないじゃないですか。だけど言い方はそうなんです。これはぼく、からかいましたけど、SFにしかならないので、こんなのは『機動戦士ガンダム』とか『宇宙戦艦ヤマト』がとうに言っていることですよ。”

(鮎川信夫との対談で)
“鮎:ぼくは核戦争てものはないと思ってる。ないと思ってる者から見ればこんな馬鹿馬鹿しいことはないんでね。
吉:ええ、ぼくもこれは一種の核という宗教運動だと思ってるんです。この運動の有効性を確かめる手段は、核戦争が起こること以外にないんですよ。こんなアホらしいことってないですよ。人類の破滅なんてことを言うこと自体が矛盾なんですね。これはどこかで言ったこともあるんですけど、いま核戦争をする能力のあるのはアメリカとソ連だけなんだから、アメリカとソ連を名指しで非難するのなら政治的な大衆運動として成り立ち得る。しかしそれ以外だったら成り立ちようがないと思うんです。”

吉本は、この反「反核声明」の意思表示によって、「反核」の側から、集中砲火を浴びる。
しかも、その吉本への再反論は、おおよそ吉本の論理を理解していない稚拙なものばかりであって、ますますろくでもない方向へ暴走していく。
要は、「反核」に反対したから吉本は原爆賛成派であり戦争肯定派だ、などといったような、全く的はずれなものばかりで、そうしたお粗末な状況に、次第に吉本もキレる。
「ドブ鼠」だの、「このド阿呆が」だのと、いつになく語気の荒い吉本隆明を読めるのがこの『「反核」異論』のスリリングなところ。

思わず拍手したくなるほどかっこよく言い切っている箇所をまた少し引用します。

“たとえば「文学者の反核声明」の発起人の一人栗原貞子は、中上健次の「鴉」という作品に言及して「このような作品は、ヒロシマ・ナガサキの三十万の死者を冒涜し、今なお放射能の後遺症に苦しむ三十七万の被爆者を侮辱し、世界の反核運動に立ちあがった民衆に挑戦するものです。全国からとどくであろう抗議文のすべてを『群像』の次号に掲載し、『群像』編集部の不明を謝罪して下さい。」などとほざいている。いったいこの人物は、いつ誰の許可を得て「ヒロシマ・ナガサキの三十万の死者」や「後遺症に苦しむ三十七万の被爆者」や「世界の反核運動に立ちあがった民衆」の代弁者の資格を獲得したのか。思い上りや甘ったれもいい加減にしろ。お前がどんな文学者かわたしは知らぬが、お前はお前しか代弁することはできやしない。そのことが<文学>の意味であり<民衆>ということの意味である。お前はほんとはそのどちらでもないんだ。こういう言辞を中上が原爆ファシズムと評するのは当然である。わたしはこういう人物に対しては断乎として主張する。平穏な日常生活のなかで脳卒中の後遺症に苦しむ人も、老衰による自然死も、「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者の後遺症や、その死とまったく同等であり、「世界の反核運動に立ちあがった民衆」も、そんなものにいっこう立ちあがらずに平穏な日常生活をその日その日なんとなくすごしている民衆も同等である、と。「反核運動に立ちあがった民衆に挑戦」するのが不当ならば、そんなものにいっこう立ちあがらないその日ぐらしの民衆に「挑戦」するのも不当なのだ。”

「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざすと、間違いなくそれは暴走を始める。
抑圧的な構造を作り出していく。
そのことに吉本は、大きな危機感を持っている。
反核声明に反対しただけで、自分がすぐに原爆賛成派、戦争肯定派にしたてあげられていく状況を、吉本は「社会ファシズム」だと言っている。
以下、三浦雅士との対談から、その辺のことがわかりやすく語られている箇所を引用。

“社会ファシズムですね。反核声明を批判するためには、文壇から全く追い出される覚悟が必要なんですよ。そういうように持っていくところに、彼らのファシズムがあるわけです。だから批判しなきゃいけないんだけれども、批判するにはそれだけの覚悟がいるようにちゃんとでき上がっているんです。井伏鱒二から始まって、文壇の年功序列が全部含まれているわけでしょう。これをぶったたいたら、おまえ、食いっぱぐれになるかもしれないぞということは一応考えなくちゃね。それをやらなければ、けんかできないわけですよね。
 それから、ぼくを例にとれば奥野健男みたいな親しい友人が署名しているわけでしょう。埴谷雄高さんにしろ、島尾敏雄さんにしろ、文学者としていい作品を書いていて、ぼくが敬意を表している人もいるわけですよね。だけども、おれがやったらそういう人たちとも仲たがいになるかもしれない、そういう覚悟もいるわけですよね。そういう覚悟がなくて不用意にはできないということはあるでしょう。
 だから、ああいうやり方は一番いけないことなんですね。それは社会ファシストのやり方だということね。つまり、戦争中の文学報国会の裏返しだということで、それは歴然としているわけですよね。こんなものはやっつけないといけないわけですが、それだけの覚悟はいるんですね。だけど、ぼくは、これはそら恐ろしくなったから、ちょっとやってやろうと思っているわけです。単独でこのけんか買った。日本<旧左翼>と日本文壇と全部相手にしてやろうとだんだん思っているわけです。”

“ぼくはその恐ろしさを戦争中によく知っている。つまり、戦争中はそうなんです。大東亜共栄圏の確立のために何々するとかいうと、文学もまたそれに何とかしなきゃいけない。文学報国会ができて、それから社会全体もそうなっていく。それが疑問の余地ない“正義”なんですよね。それに対して反対だというのは声が出ないんですよ。一応はそれがどうしても“正義”だというように理解されてしまうんですね。そういうことはしこたま体験しているから、こういうのを黙っていてはいけない、つまり、これは文学報国会の裏返しだと思っているわけです。”

また別の箇所では、雑誌の一読者や大岡昇平からの批判に対して、次のようにも。

“この「一読者」と「大岡昇平」に共通しているのは、「文学者の反核声明」の発起人による「お願い」の趣旨、声明の「本文」それの何れにも賛成できないから署名などしようがないという、反対の意思表明を、「反核」自体にたいする反対にすりかえていることだ。つまり、発起人のなかのスターリニストが新聞の匿名欄でほざいているデマゴギイとまったく同じ手口に陥っている。何をそんなに上ずっているのか。まだ共通点がある。両者は反対と批判の意見の要旨をまったく読みえていないことだ。まだある。その上、両者は「“核廃絶”に難しい理屈は必要ありません。」(一読者)、「米ソ核大国の抗争にまきこまれて、戦略核限定戦争の犠牲になるくらい、ばかばかしきことなし。」(大岡昇平)という点でも共通している。
 この「一読者」や「大岡昇平」は何を勘ちがいしているのか。「核廃絶」が無条件的であり、「米ソ核大国の抗争にまきこまれて、戦略核限定戦争の犠牲になる」のは御免だから、米ソ両国を名ざして批判する反核しか成り立たないと主張しているのは、こっちの方であり、中野孝次、小田切秀雄、西田勝、小田実ら「文学者の反核声明」発起人らは、限定核戦争をやりそうなのは米国に責任があると云っているので、無条件「核廃絶」を主張しているのではないのだ。”

この「反核」論争(て言うか、ほとんど「論争」にもなってないけど)は、現在ならば、たとえば「環境問題」なんかに置き換えてみると、いまだに学ぶべき点がたくさんあるのではないかと思う。
「環境保護」とか「人権擁護」とかいったような、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざす人たちを前にしたときの、何となくイヤな感じは、この「反核声明」のイヤな感じとよく似ている。
この「何となくイヤな感じ」は、やはり信用していいのだ。

『「反核」異論』には、文学者の反核声明に対する、そのような「イヤな感じ」、当初の感覚的な違和感についても共感できるような記述がたくさんある。

“中野孝次の「『文学者の声明』について」という文章は、不必要に揉み手をしているくせに傲慢な嫌らしい文章だ。わたしは最後の「強制はまったくなし。一枚岩の運動ではないのです。」という結びの文句を読みおわって、即座に、<ふざけやがるな。お前なんかには「強制」する資格もなければ、「強制はまったくなし」などと断り書きをいう資格もないのだ。何を勘ちがいしてるんだ>と……”

こういう箇所を読んで、思わず「そうそう! そういう奴ってそんな感じ!」と溜飲を下げた。
この数行だけで、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざす人たちの無神経さが、実に的確に描写されていると思う。

自分は趣味のために排気ガスを撒き散らす大型のディーゼルエンジンの新車を買ったばかりのくせに、「ちょっと寒くなったからってストーブつけるな、厚着しろ」などと言って職場のストーブを消して回ったかつての同僚の話を、そう言えばずいぶん前に書いた。
一緒に食事をすれば、割り箸を使うな、塗り箸を持ち歩け、とうるさい。
そうした無神経さと、中野孝次の「強制はまったくなし」は、まるで同質と感じられる。
一言で言えば、「何をいい気になってやがる」としか言いようのない無神経さだ。

しかし、吉本が実際に集中砲火を浴びたように、このような吉本の主張はなかなか通りが悪く、「核に反対して何が悪いんだ」とか、「節約はできるところからすればいいじゃないか。塗り箸持ち歩いて何が悪い」とかいったような粗雑な議論をすぐに喚起してしまう。

もちろん、反核や環境保護が悪いわけがない。
反核や環境保護それ自体に反対するつもりはさらさらない。
うちの死んだばあちゃんは、鼻をかんだチリ紙でも折りたたんでまた懐に戻すし、使用後の割り箸だって持って帰るし、豆腐に醤油かけすぎると怒るくらいのケチだった。
しかし、当然ながら、地球環境がどうのとか温暖化がどうのとかいったことは一言も言ったことがないのであって、淡々と当たり前のようにそうやっていただけだ。
いや、仮にばあちゃんが地球環境を心配していたとしても(100%それはないけど)、地球環境を心配する気持ちや、戦争に反対する気持ち自体を批判するつもりも、当たり前だけども、さらさらない。

中野孝次の反核声明にも、確信犯である発起人たち以外に、集会に参加した数十万人、署名しただけの2千万の一般人がいる。
集会に参加した人はともかくとして、署名しただけの人は、単なる付き合いで署名した人もいるだろうし、単純に「戦争は厭だなあ」と考えただけの人もいるはずだ。
そのような「純朴な」人たちを、どのように考えるのか。
この辺のことについても、吉本隆明ははっきりと次のように言っている。

“今回のこの運動には、それとは違う層があります。五月二十三日の集会に動員された半政治的な数十万の大衆っていうものです。この人たちは言い出しっぺに「ダイ・イン」しろって言われてゴロッと死ぬ真似をしましたね。あれを自分で異常な行動だと気付かなきゃ嘘だと思うんです。その時ちょうどフォークランド紛争でアルゼンチンと英国の兵士が非核戦争で生命を落としている真っ只中でしょ。そこで白昼反核だと称して死んだ真似してるっていうのは嘘なんだ、自分がおかしいと気付かなきゃどうしようもないんです。だからぼくは数十万人に対する批判と、言い出しっぺの旧左翼に対する批判とが別個にありますね。数十万人に対しても、そんなこと気付かないのか、おかしいことしてるんだよ、そんなこと呑気にやってたらますます高度になっていく管理社会で、こらえてたたかいながら生きていけないよって言わなきゃいけないと思ってるんです。もう一つ署名した人が二千万人だかいるでしょ。これは素朴に「核戦争なんて厭だ」とか「戦争はもう御免です」っていう人かも知れません。この人たちに対してさし当たってぼくは言うことないんですよ。ぼくも町会かなんかで署名用紙が回って来たらわからないので、言うことないんです。つまり「お前たちは欺されてるんだぞ」と言う気持も、また軽んずる所存もまったくないんです。おじいさんやおばあさんが、死んだら浄土や天国に行けると信じてるのに対して「そんなのはないんだ」って言う気はぼくの思想には本質的になくて、「ええその通りです」って言う。ほかのことを言ったら、小賢しごとになるということです(笑)。だけどこの二千万人をおまえは肯定するのか、と問いつめられたとすれば、どこかで疑問を提出することにはなると思います。こうまで言い切ってしまうだけの器量はないんですけど、ほんとうは「善意ってのは地獄への道だぜ」ってレーニンみたいに言いたい。ちょっと言いきっちゃう自信はないですけどね。どこかでこの二千万人を越える道を探したいっていう気がするんです。”

極めて誠実な言い方だと思う。
ここまできっちり説明されても、当時の「反核」側の人たちはまだわからなかったのかとも思う。

SIGHTのインタビューでは、吉本は、「今ならもっと穏当な言い方ができる」と、若かりし頃(と言っても「反核」異論の頃は既に50代後半)の自分の激しい物言いに照れている。
そして最近は、同様のテーマについて、「いいことをするときは、よほど申し訳なさそうな顔をして、こっそりやった方がいい」というような言い方をしている。
いいことはさりげなく言え、悪態は大っぴらにつけ、といったような言い方もしている。
「この二千万人を越える道」へ、その後の吉本隆明は、着実に進んできているのだと思う。

最後にもう一つ補足。
この反核論争において、当初はキレていた吉本も、次第に「反核」側の反論の稚拙さにあきれ、冷静に状況分析を始める。
当時の反核運動の異常な盛り上がりの背景にあったのは何なのか、ということについて、以下のように書いている。

“現在「岩波文化」「朝日新聞」型の正統主義、教養主義、進歩主義は、サブカルチュアの質の優秀さ、量の膨大さから、かつてどの時代とも異った、誰もの想像を超えた規模の浸透力をひっかぶって、追詰められている。そのため経済社会的にも、理念的にも崩壊しつつある。また「岩波文化」、「朝日新聞」型の進歩文学者、旧左翼文学者、保守的な教養主義の文学者もまた、凋落と圧迫と経済的な不安を感じている。……また大衆芸能、大衆文化現象の氾濫と混乱、教育過多と退廃、また学校暴力と家庭の崩壊現象など、どれひとつをとってみても「岩波」「朝日」型の教養主義や旧左翼理念や、正統文化主義で、対応できるような限度を超えつつある。これらの情況に、いわば対応力を喪って、鬱屈の極限に達したソ連型(半アジア型)の進歩主義、左翼主義、正統保守文学者たちが、反動としての倫理の出口を、<反核>に見つけだしたといえる。”

つまり、この反核運動の盛り上がりは、サブカルチャーに追い詰められて出口を喪った岩波・朝日型正統文化主義・旧左翼が最後にそのフラストレーションの捌け口を求めた断末魔の叫びであった、と。
我々の世代からすれば、サブカルチャーとメインカルチャーの転倒というのは当然の事態であるように感じられるし、今の若い世代にとっては、もはやかつての岩波・朝日型の旧左翼的教養主義そのものが冗談のようなものでしかないのだろうけれども、80年代初頭の論壇でこのような立場を取るのが、極めてマイナーな存在であったことがわかって面白い。
もちろん、ちゃんと先が見えていたのは吉本の方だったわけだ。

絶版にしておくのは勿体ない名著であると思うので、多少高くてもやっぱり手元に置いておきたいなあと思いました。

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コメント

もしかして、アンチ巨人たちが口を揃えて「読売はカネにものいわせてるからダメなのだ」とかナベツネ批判するのと似た話なのかな、いやー、ちがうかな。それはさておき、引用文の長さが気になります。スキャンすると文字入力してくれるソフトとかあるんでしょうか。本を横に置いて打ち込んでるのだとしたら、大変な作業でしょう〜。

投稿: さんぽん | 2008年5月29日 (木) 01時58分

本を横に置いてキーで入力しております! ぼくの特技ですから(笑)。それに、手でうつすと内容がよく頭に入るという副次的な効果もありました。

投稿: riki | 2008年6月 2日 (月) 23時27分

俺がこの本読んだのは1984年頃だったと記憶するが、この約25年間に俺以外でこの本を絶賛してる人を見たのは初めてだ。

吉本ファンなら悪口は言わないわけだが、なぜかこの本を挙げるやつは少ないんだよな。俺に言わせたら、もし吉本を一冊だけ読むならこれを読め、と言いたいくらいの本なんだが。

投稿: zaltair | 2008年7月 8日 (火) 10時54分

福島以降の状況を見れば、吉本の稚拙さがよくわかる。
脱原発運動の腰を折った戦争責任は大きい。

投稿: Ganggreen | 2012年3月26日 (月) 16時43分

・・・いったんN兵器が使われれば、直ちに全面戦争、すなわち人類の滅亡に発展することを容認する戦略理論である大量報復戦略理論に基づいて国家戦略を構築していたのでは、東西両陣営の共存を図れない。・・・(軍事学入門 p283/防衛大学校・防衛学研究会 編:かや書房)

軍事の専門家もこう言うのですから、吉本の不勉強ぶりは明らかであります。

投稿: ほかひびと | 2013年2月20日 (水) 21時18分

はじめまして。とても素晴らしい読み解きを読ませて頂きました。吉本は、核の是非を言っている訳ではなく(とは言ってもどちらかと言うと吉本は原子力有効利用派でしたけど)、「反核」活動の性根を問うてる訳ですよね。なのに「反核」ということの是非自体に拘る人がいることが危険だ、ということはみんなもっと判らないといけないと思いました。

投稿: タツミ | 2013年3月 4日 (月) 00時21分

なつかしいなあ。というかこの本は今も読まれても、いや今こそ読まれてもいいと思います。だって
>福島以降の状況を見れば、吉本の稚拙さがよくわか
>る。脱原発運動の腰を折った戦争責任は大きい。
ていう考え方をする人がいるんですもん。東日本大震災以後、そして福島原発以後の脱原発運動の「うさんくささ」を私は感じているからです。「誰からも批判されない立場から物を言う人」がまたまた跋扈していると思うからです。またぞろ大江健三郎なんておぞましい人物も出てきてますもんね。中心が坂本龍一なんかのサブカルチャーの代表みたいな人物なったことも一つの時代の変化と新たな危険さを感じます。そういう意味では、サブカルチャー側からこの問題を問う人が出てきてもいい頃かなとは思いますけどね。その意味でもこの本が読まれ続けていくことを希望します。こういう人は絶対いると思います。「吉本なんてもう古い」。私は「そうでしょうか?」と言いますけどね。

投稿: kashimashii | 2014年9月 6日 (土) 22時37分

>ほかひびと ・・・いったんN兵器が使われれば、直ちに全面戦争、すなわち人類の滅亡に発展することを容認する戦略理論である大量報復戦略理論に基づいて国家戦略を構築していたのでは、東西両陣営の共存を図れない。・・・(軍事学入門 p283/防衛大学校・防衛学研究会 編:かや書房)
軍事の専門家もこう言うのですから、吉本の不勉強ぶりは明らかであります。

だから、SFチックな地球の破滅を主張した反核運動を批判したのが吉本隆明の方でしょ?

投稿: ななし | 2015年9月 1日 (火) 16時17分

核戦争は起こる可能性がなく、既に起こっている小火器による犠牲者は数千万人~2億人に達している…という事実から認識している吉本隆明さんのホントに広い視野と深い考察を知ることができる反核異論でした。「超戦争論」をいっしょに読むと論議の全体像がハッキリ見える感じですね。

こちらのBLOGの鋭く広い読みで新たな感慨がありました。勝手ながらTBさせていただきましので、よろしくお願いします。

投稿: 独解 | 2015年9月14日 (月) 22時32分

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