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2008年5月

2008年5月29日 (木)

キンクスを聴き直す

キンクスのCDは、20年くらい前に買った『Something else by the Kinks』と『The Village Green Preservation Society』の2枚だけを持っていて、その2枚はたいへん好きで、20年くらい前はよく聴いていたのだけれども、それ以後は基本的に疎遠だった。
それより前、中学生か高校生の頃には、『Schoolboys in Disgrace』とかを友達にダビングさせてもらったカセットテープで持っていたはずなんだけれども、あまり印象に残っていない。

ご存じのとおりキンクスは、ビートルズやストーンズやフーと同期の、本国では超VIPなわけであるけれども、日本ではたいそう地味で、一般的にはせいぜいデビューアルバムの「You Really Got Me」くらいのイメージではないかと思う。
「You Really Got Me」は、ハードロックの始原として言及されることが多いし、実際、確かにあのようなリフ主体の曲(て言うか、リフだけで出来た曲)というのはそれ以前には見当たらず、当時においては革命的な発想だったのかもしれない。
が、あのような曲は、基本的にあれだけであって、本来のキンクスの持ち味は、全く別のところにある。
正直、キンクスの魅力は、日本人には非常にわかりづらい。

まず、演奏の下手なのが、どうしても気になる。
ライブが下手なのは仕方ないにしても、スタジオ盤でも気になるくらいに、演奏力が低い。
加えて、レイ・デイビスの歌も決して上手くない。て言うか、はっきりと下手だ。
聴いてるとどうも「曲はいいのになあ……」という気になってくる。

……とまあ、キンクスに対する個人的な認識は、おおよそ以上のようなままでずっと経緯していた。

それが、しばらく前になんとなくまた『Something else by the Kinks』を聴いていて、なんとなく歌詞カードを手にとって読み始めたら、なんだかどんどん印象が変わってきた。

やはり、レイ・デイビスは、歌も演奏もダメだけれども、ソングライターとしては超一級だ。
そもそも、ビートルズやストーンズがまだ黒人音楽のコピーばっかりやってた最初期から、キンクスだけは既にオリジナル曲をどんどん作っている。
そして、レイ・デイビスの書く曲は、極めてイギリス的なウィットとシニックに満ちたものであって、その辺が我々日本人には実にわかりにくい。
しかし、その雰囲気をひとたび理解すれば、そこには何とも言えない味わい深い世界が待っていたのだ。
そのことに今頃気がついた。
曲がいいのは十分わかっていた。
でも、やはりキンクスは、歌詞も併せて理解しなければいけなかったのだ。
そうすれば、あの下手くそなレイ・デイビスの歌さえもが、また何とも言えない魅力をたたえたものに聞こえてくる。

例えばポール・ウェラーがカバー(て言うかほとんどコピー)した「David Watts」はこんな詞だ。

I am a dull and simple lad
Can not tell water from champagne
And I have never met the queen
And I wish I could have all that he has got
I wish I could be like David Watts

He is the head boy at the school
He is the captain of the team
He is so gay and fancy free
And I wish all his money belonged to me
I wish I could be like David Watts

And all the girls in the neighborhood
Try to go out with David Watts
They try their best but can't succeed
For he is of pure and noble breed

Wish I could be like David Watts

僕はさえない単純な男
水とシャンペンの違いもわからない
女王陛下になんっか会ったこともない
ヤツが持ってるものを全て手に入れられたらいいのに
デビッド・ワッツのようになれたらいいのに

彼は学校の代表で
チームのキャプテン
快活なタイプで恋になんて興味がない
ヤツの金が全部僕のものになればいいのに
デビッド・ワッツみたいになれたらいいのに

近所の女の子はみんな
デビッド・ワッツを誘い出そうと必死だけど
うまくはいかない
ヤツは純粋で高貴な信念の持ち主なんだ

デビッド・ワッツのようになれたらな……

これは要するにイギリス貴族の優等生のおぼっちゃまを皮肉った曲だということに、恥ずかしながら、今まで気づいてなかった。
て言うか、サビの、♪Wish I could be like David Watts っていうところしか耳に入ってなかった。
単純に、デビッド・ワッツみたいになりたいって歌ってるのかと思ってた。

モリッシーのような、強烈な毒のあるシニシズムではない。
もっとイギリスの伝統的な、落ち着いた、品のあるシニックだ。
だから、我々日本人は、注意深くちゃんと読まないと気付かない。
そして、気付くと、そのすっとぼけたような妙味が楽しくなってくる。
その曲の良さと、詞の妙味と、レイ・デイビスの歌の下手さ加減が、実に按配のよいバランスであるということがわかってくる。
そう、キンクスは、あまりにもイギリス的なバンドだったのだ。

だんだん面白くなってきたので、調子にのって、『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』『ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦』『マスウェル・ヒルビリーズ』と、次々に買いそろえた。
もとよりキンクスは、どのアルバムにも「ハズレがない」バンドとしても名高い。
どれを買ってもみなそれぞれによい。
でも、やっぱり聴き慣れているせいなのか、『サムシング・エルス』がいちばん好きだ。

中でも、1曲だけ選べと言われたら、「ウォータールー・サンセット」を選ぶ

Waterloo Sunset

Dirty old river, must you keep rolling
Flowing into the night
People so busy, makes me feel dizzy
Taxi light shines so bright
But I don't need no friends
As long as I gaze on waterloo sunset
I am in paradise
   
Every day I look at the world from my window
But chilly, chilly is the evening time
Waterloo sunsets fine
   
Terry meets julie, waterloo station
Every friday night
But I am so lazy, don't want to wander
I stay at home at night
But I don't feel afraid
As long as I gaze on waterloo sunset
I am in paradise

Millions of people swarming like flies round waterloo underground
But terry and julie cross over the river
Where they feel safe and sound
And they don't need no friends
As long as they gaze on waterloo sunset
They are in paradise

汚れ淀んだ川よ
お前は夜の闇へと
まだ流れ続けなければならないのか
慌ただしく行き交う人々は
ぼくをクラクラさせる
タクシーのライトが眩しく光る

でもぼくは友達なんかいらない
ウォータールーの夕焼けを眺めていれば
ぼくは幸せ

毎日ぼくは窓から世界を眺めている
でも夕暮れ時は冷えるね
ウォータールーの夕焼けは素晴らしい

テリーとジュリーはウォータールー駅で
毎週金曜の夜に待ち合わせ
でもぼくは外をぶらつくのも面倒だから
夜は家で過ごす

だけど不安には感じない
ウォータールーの夕焼けを眺めていれば
ぼくは幸せ

たくさんの人々がハエのように群がる
ウォータールー駅の地下鉄
でもテリーとジュリーは川を渡って
ほっとできる場所へと向かう
彼らには友達なんていらない
ウォータールーの夕焼けを眺めていれば
彼らは幸せなんだ

これは元祖引きこもりの歌ではないか。
窓から外を眺めてぼんやりしているのび太くんのようでもある。
そして、(日本語にしてしまうとちょっと身も蓋もない感じもするけど)、詩として非常によくできていると思う。
慌ただしい外の世界と、その慌ただしい世界を輝かしく包む夕焼けを窓から眺め、隠居した老人のように過ごす「ぼく」が、2番の詞では、窓から見える景色の中の「テリーとジュリー」というカップルに自己を投影していく。
窓から世界を眺めるだけの「ぼく」が、「テリーとジュリー」を介してその世界の中に入り込み、そしてまた慌ただしさから逃げていく。
慌ただしい世界と美しい夕陽の対比も、実に絵画的と言うか、ビジュアルなイメージを喚起する。

こういう世界が、極上のメロディーと、低レベルな歌唱力で歌われている。
こういうナイーブな世界だからこそ、声量のある上手な歌声であっては、味がない。
レイ・デイビスの歌の下手さには、ちゃんと意味があるのであった。

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2008年5月26日 (月)

吉本隆明『「反核」異論』を読む

少し前の「SIGHT」の連載インタビューで吉本隆明が83年の著作『「反核」異論』についてしゃべっているのを読んで、この本をもう一度読みたくなった。
うんと若い頃に一度は読んでいるはずで、そのいつになく激しい語り口については何となく覚えているような気もするのだけれども、具体的な内容は何も思い出せない。
おそらく当時は読んでもよく理解できなかったのだと思う。
今読むとおもしろいかもしれない。

ところが、この本、絶版になっているらしく、オンライン書店を検索しても出てこない。
アマゾンでは中古に2000円とか4000円とかの値がついている。
仕方がないので図書館へ行ってみたら、89年の新装版が書庫にあるというので、出してきてもらって借りることにした。

読んでみると、やはりこれがめちゃくちゃに面白い。
80年代頃の吉本の著作はまだまだやたらと難解で、自分としてはなかなか完読するのが難しいのだけれども、この本は比較的わかりやすく、割とすらすら読める。
それでも前に手に取った高校生の頃だか大学生の頃だかにはわからなかったのか、何もかも初めて読むような気がする。
だから、余計におもしろい。

この「反核」論争で吉本隆明は、当時の文壇や論壇から集中砲火を浴び、ほとんど孤立無援の状態となった。
それでもこの本を読むと、どう見ても正論を述べているのは吉本の方であって、そもそも当時吉本を攻撃していた人々は、吉本の論理をてんで理解していなかったらしいことがうかがわれる。
そして、吉本が本書で主張していることはいまだに有効であって、むしろ、今こそ再度耳を傾けるべき内容であるように思う。
こういう本を入手困難な状態にしておいてはいけない。

事の成り行きは以下のとおり。

81年に中野孝次らが中心となって文学者の反核声明を発表した。
結果的にこの声明は、500人以上の文学者の賛同署名を集め、2千万人の署名運動に進展し、また翌年の5月には三十五万人が集会に参加した。
この反核運動に、吉本が異を唱える。

吉本の論理は明快である。
中野孝次による反核声明は、アメリカのレーガン政権によるヨーロッパ核配備だけを一方的に問題視し、当時のソ連についてはうやむやに敢えて言及していない。この時期、ソ連は非核戦力によってポーランドの「連帯」を弾圧しており、結果的に、西ドイツの文学者たちに端を発するこのときの反核運動は、この「連帯」弾圧の隠れ蓑となっている。明らかにソ連製と言ってよい、党派性の強い動きである。……というのがまずひとつ。
当時、核戦争をおっ始めることができるのはアメリカとソ連だけなのだから、反核運動というのであれば、それは、名指しでアメリカとソ連を批判することでしか、運動としては成立し得ない。しかるに中野らの声明は、アメリカのやり方が一方的に問題であるかのような偏った情況認識に立った上で、「核戦争が起これば地球が全滅する」などというSF的な妄想で不安を煽るばかりの、全く意味のない内容になっている。……というのが結論。
従って、賛同したくてもしようがない、ということだ。

それは、吉本が最初にこの問題に言及した、「マス・イメージ論」の中の「停滞論」で、はっきりと語られている。
「停滞論」は、当時ベストセラーになっていた黒柳徹子「窓際のトットちゃん」と、この中野孝次らの反核声明を、2つまとめて批判した痛快な文章だ。
現在では再現することなどできようもない「トットちゃん」の育った教育環境を理想のように語る黒柳徹子の小説も、現実には運動として成立し得ない妄想のような反核理念も、一見正義を語っているようではあるが、実際にはいずれも現在の情況から安易に目をそむけているだけの、倫理的退廃でしかない、と吉本は一蹴している。(んだと思う)
特に気持ちいい箇所を引用してみます。

“これが「ひとたび核戦争が起これば」「全世界を破滅せしめるにいたること」はあきらかだから「人類の生存のために」「すべての国家、人種、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめざし」て「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に署名をして欲しいという、中野孝次らの情勢認識である。もちろんわたしは、かれらにむかって、君たちは「人類」としてそんなに「生存」が心配なのかとか、君たちは誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義を独占した言語にかくれて、そんなにいい子になりたいのかと半畳を入れたいのだ。そして誰からも非難されることもない場所で「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせることが、倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもないことを明言しておきたい。”

また、別の箇所で、同様のことをさらにわかりやすく以下のようにも言っている。

(三浦雅士との対談で)
“核戦争が一度起こると地球上の全生物を何度でも絶滅できる力を持っているんだとか、それは地球最後の戦争になるみたいなことを言っている。だから反対するんだと、そう言っているのね。だけど、全生物を何回でも殺せるようなものが始まったら、反対もヘチマもない。全部死んじゃうんだから、おまえも死んじゃえばいいじゃないかと言ってるのと同じじゃないですか。つまり、そんなのはニヒリズムじゃないですか。反対する意味がないじゃないですか。だけど言い方はそうなんです。これはぼく、からかいましたけど、SFにしかならないので、こんなのは『機動戦士ガンダム』とか『宇宙戦艦ヤマト』がとうに言っていることですよ。”

(鮎川信夫との対談で)
“鮎:ぼくは核戦争てものはないと思ってる。ないと思ってる者から見ればこんな馬鹿馬鹿しいことはないんでね。
吉:ええ、ぼくもこれは一種の核という宗教運動だと思ってるんです。この運動の有効性を確かめる手段は、核戦争が起こること以外にないんですよ。こんなアホらしいことってないですよ。人類の破滅なんてことを言うこと自体が矛盾なんですね。これはどこかで言ったこともあるんですけど、いま核戦争をする能力のあるのはアメリカとソ連だけなんだから、アメリカとソ連を名指しで非難するのなら政治的な大衆運動として成り立ち得る。しかしそれ以外だったら成り立ちようがないと思うんです。”

吉本は、この反「反核声明」の意思表示によって、「反核」の側から、集中砲火を浴びる。
しかも、その吉本への再反論は、おおよそ吉本の論理を理解していない稚拙なものばかりであって、ますますろくでもない方向へ暴走していく。
要は、「反核」に反対したから吉本は原爆賛成派であり戦争肯定派だ、などといったような、全く的はずれなものばかりで、そうしたお粗末な状況に、次第に吉本もキレる。
「ドブ鼠」だの、「このド阿呆が」だのと、いつになく語気の荒い吉本隆明を読めるのがこの『「反核」異論』のスリリングなところ。

思わず拍手したくなるほどかっこよく言い切っている箇所をまた少し引用します。

“たとえば「文学者の反核声明」の発起人の一人栗原貞子は、中上健次の「鴉」という作品に言及して「このような作品は、ヒロシマ・ナガサキの三十万の死者を冒涜し、今なお放射能の後遺症に苦しむ三十七万の被爆者を侮辱し、世界の反核運動に立ちあがった民衆に挑戦するものです。全国からとどくであろう抗議文のすべてを『群像』の次号に掲載し、『群像』編集部の不明を謝罪して下さい。」などとほざいている。いったいこの人物は、いつ誰の許可を得て「ヒロシマ・ナガサキの三十万の死者」や「後遺症に苦しむ三十七万の被爆者」や「世界の反核運動に立ちあがった民衆」の代弁者の資格を獲得したのか。思い上りや甘ったれもいい加減にしろ。お前がどんな文学者かわたしは知らぬが、お前はお前しか代弁することはできやしない。そのことが<文学>の意味であり<民衆>ということの意味である。お前はほんとはそのどちらでもないんだ。こういう言辞を中上が原爆ファシズムと評するのは当然である。わたしはこういう人物に対しては断乎として主張する。平穏な日常生活のなかで脳卒中の後遺症に苦しむ人も、老衰による自然死も、「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者の後遺症や、その死とまったく同等であり、「世界の反核運動に立ちあがった民衆」も、そんなものにいっこう立ちあがらずに平穏な日常生活をその日その日なんとなくすごしている民衆も同等である、と。「反核運動に立ちあがった民衆に挑戦」するのが不当ならば、そんなものにいっこう立ちあがらないその日ぐらしの民衆に「挑戦」するのも不当なのだ。”

「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざすと、間違いなくそれは暴走を始める。
抑圧的な構造を作り出していく。
そのことに吉本は、大きな危機感を持っている。
反核声明に反対しただけで、自分がすぐに原爆賛成派、戦争肯定派にしたてあげられていく状況を、吉本は「社会ファシズム」だと言っている。
以下、三浦雅士との対談から、その辺のことがわかりやすく語られている箇所を引用。

“社会ファシズムですね。反核声明を批判するためには、文壇から全く追い出される覚悟が必要なんですよ。そういうように持っていくところに、彼らのファシズムがあるわけです。だから批判しなきゃいけないんだけれども、批判するにはそれだけの覚悟がいるようにちゃんとでき上がっているんです。井伏鱒二から始まって、文壇の年功序列が全部含まれているわけでしょう。これをぶったたいたら、おまえ、食いっぱぐれになるかもしれないぞということは一応考えなくちゃね。それをやらなければ、けんかできないわけですよね。
 それから、ぼくを例にとれば奥野健男みたいな親しい友人が署名しているわけでしょう。埴谷雄高さんにしろ、島尾敏雄さんにしろ、文学者としていい作品を書いていて、ぼくが敬意を表している人もいるわけですよね。だけども、おれがやったらそういう人たちとも仲たがいになるかもしれない、そういう覚悟もいるわけですよね。そういう覚悟がなくて不用意にはできないということはあるでしょう。
 だから、ああいうやり方は一番いけないことなんですね。それは社会ファシストのやり方だということね。つまり、戦争中の文学報国会の裏返しだということで、それは歴然としているわけですよね。こんなものはやっつけないといけないわけですが、それだけの覚悟はいるんですね。だけど、ぼくは、これはそら恐ろしくなったから、ちょっとやってやろうと思っているわけです。単独でこのけんか買った。日本<旧左翼>と日本文壇と全部相手にしてやろうとだんだん思っているわけです。”

“ぼくはその恐ろしさを戦争中によく知っている。つまり、戦争中はそうなんです。大東亜共栄圏の確立のために何々するとかいうと、文学もまたそれに何とかしなきゃいけない。文学報国会ができて、それから社会全体もそうなっていく。それが疑問の余地ない“正義”なんですよね。それに対して反対だというのは声が出ないんですよ。一応はそれがどうしても“正義”だというように理解されてしまうんですね。そういうことはしこたま体験しているから、こういうのを黙っていてはいけない、つまり、これは文学報国会の裏返しだと思っているわけです。”

また別の箇所では、雑誌の一読者や大岡昇平からの批判に対して、次のようにも。

“この「一読者」と「大岡昇平」に共通しているのは、「文学者の反核声明」の発起人による「お願い」の趣旨、声明の「本文」それの何れにも賛成できないから署名などしようがないという、反対の意思表明を、「反核」自体にたいする反対にすりかえていることだ。つまり、発起人のなかのスターリニストが新聞の匿名欄でほざいているデマゴギイとまったく同じ手口に陥っている。何をそんなに上ずっているのか。まだ共通点がある。両者は反対と批判の意見の要旨をまったく読みえていないことだ。まだある。その上、両者は「“核廃絶”に難しい理屈は必要ありません。」(一読者)、「米ソ核大国の抗争にまきこまれて、戦略核限定戦争の犠牲になるくらい、ばかばかしきことなし。」(大岡昇平)という点でも共通している。
 この「一読者」や「大岡昇平」は何を勘ちがいしているのか。「核廃絶」が無条件的であり、「米ソ核大国の抗争にまきこまれて、戦略核限定戦争の犠牲になる」のは御免だから、米ソ両国を名ざして批判する反核しか成り立たないと主張しているのは、こっちの方であり、中野孝次、小田切秀雄、西田勝、小田実ら「文学者の反核声明」発起人らは、限定核戦争をやりそうなのは米国に責任があると云っているので、無条件「核廃絶」を主張しているのではないのだ。”

この「反核」論争(て言うか、ほとんど「論争」にもなってないけど)は、現在ならば、たとえば「環境問題」なんかに置き換えてみると、いまだに学ぶべき点がたくさんあるのではないかと思う。
「環境保護」とか「人権擁護」とかいったような、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざす人たちを前にしたときの、何となくイヤな感じは、この「反核声明」のイヤな感じとよく似ている。
この「何となくイヤな感じ」は、やはり信用していいのだ。

『「反核」異論』には、文学者の反核声明に対する、そのような「イヤな感じ」、当初の感覚的な違和感についても共感できるような記述がたくさんある。

“中野孝次の「『文学者の声明』について」という文章は、不必要に揉み手をしているくせに傲慢な嫌らしい文章だ。わたしは最後の「強制はまったくなし。一枚岩の運動ではないのです。」という結びの文句を読みおわって、即座に、<ふざけやがるな。お前なんかには「強制」する資格もなければ、「強制はまったくなし」などと断り書きをいう資格もないのだ。何を勘ちがいしてるんだ>と……”

こういう箇所を読んで、思わず「そうそう! そういう奴ってそんな感じ!」と溜飲を下げた。
この数行だけで、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざす人たちの無神経さが、実に的確に描写されていると思う。

自分は趣味のために排気ガスを撒き散らす大型のディーゼルエンジンの新車を買ったばかりのくせに、「ちょっと寒くなったからってストーブつけるな、厚着しろ」などと言って職場のストーブを消して回ったかつての同僚の話を、そう言えばずいぶん前に書いた。
一緒に食事をすれば、割り箸を使うな、塗り箸を持ち歩け、とうるさい。
そうした無神経さと、中野孝次の「強制はまったくなし」は、まるで同質と感じられる。
一言で言えば、「何をいい気になってやがる」としか言いようのない無神経さだ。

しかし、吉本が実際に集中砲火を浴びたように、このような吉本の主張はなかなか通りが悪く、「核に反対して何が悪いんだ」とか、「節約はできるところからすればいいじゃないか。塗り箸持ち歩いて何が悪い」とかいったような粗雑な議論をすぐに喚起してしまう。

もちろん、反核や環境保護が悪いわけがない。
反核や環境保護それ自体に反対するつもりはさらさらない。
うちの死んだばあちゃんは、鼻をかんだチリ紙でも折りたたんでまた懐に戻すし、使用後の割り箸だって持って帰るし、豆腐に醤油かけすぎると怒るくらいのケチだった。
しかし、当然ながら、地球環境がどうのとか温暖化がどうのとかいったことは一言も言ったことがないのであって、淡々と当たり前のようにそうやっていただけだ。
いや、仮にばあちゃんが地球環境を心配していたとしても(100%それはないけど)、地球環境を心配する気持ちや、戦争に反対する気持ち自体を批判するつもりも、当たり前だけども、さらさらない。

中野孝次の反核声明にも、確信犯である発起人たち以外に、集会に参加した数十万人、署名しただけの2千万の一般人がいる。
集会に参加した人はともかくとして、署名しただけの人は、単なる付き合いで署名した人もいるだろうし、単純に「戦争は厭だなあ」と考えただけの人もいるはずだ。
そのような「純朴な」人たちを、どのように考えるのか。
この辺のことについても、吉本隆明ははっきりと次のように言っている。

“今回のこの運動には、それとは違う層があります。五月二十三日の集会に動員された半政治的な数十万の大衆っていうものです。この人たちは言い出しっぺに「ダイ・イン」しろって言われてゴロッと死ぬ真似をしましたね。あれを自分で異常な行動だと気付かなきゃ嘘だと思うんです。その時ちょうどフォークランド紛争でアルゼンチンと英国の兵士が非核戦争で生命を落としている真っ只中でしょ。そこで白昼反核だと称して死んだ真似してるっていうのは嘘なんだ、自分がおかしいと気付かなきゃどうしようもないんです。だからぼくは数十万人に対する批判と、言い出しっぺの旧左翼に対する批判とが別個にありますね。数十万人に対しても、そんなこと気付かないのか、おかしいことしてるんだよ、そんなこと呑気にやってたらますます高度になっていく管理社会で、こらえてたたかいながら生きていけないよって言わなきゃいけないと思ってるんです。もう一つ署名した人が二千万人だかいるでしょ。これは素朴に「核戦争なんて厭だ」とか「戦争はもう御免です」っていう人かも知れません。この人たちに対してさし当たってぼくは言うことないんですよ。ぼくも町会かなんかで署名用紙が回って来たらわからないので、言うことないんです。つまり「お前たちは欺されてるんだぞ」と言う気持も、また軽んずる所存もまったくないんです。おじいさんやおばあさんが、死んだら浄土や天国に行けると信じてるのに対して「そんなのはないんだ」って言う気はぼくの思想には本質的になくて、「ええその通りです」って言う。ほかのことを言ったら、小賢しごとになるということです(笑)。だけどこの二千万人をおまえは肯定するのか、と問いつめられたとすれば、どこかで疑問を提出することにはなると思います。こうまで言い切ってしまうだけの器量はないんですけど、ほんとうは「善意ってのは地獄への道だぜ」ってレーニンみたいに言いたい。ちょっと言いきっちゃう自信はないですけどね。どこかでこの二千万人を越える道を探したいっていう気がするんです。”

極めて誠実な言い方だと思う。
ここまできっちり説明されても、当時の「反核」側の人たちはまだわからなかったのかとも思う。

SIGHTのインタビューでは、吉本は、「今ならもっと穏当な言い方ができる」と、若かりし頃(と言っても「反核」異論の頃は既に50代後半)の自分の激しい物言いに照れている。
そして最近は、同様のテーマについて、「いいことをするときは、よほど申し訳なさそうな顔をして、こっそりやった方がいい」というような言い方をしている。
いいことはさりげなく言え、悪態は大っぴらにつけ、といったような言い方もしている。
「この二千万人を越える道」へ、その後の吉本隆明は、着実に進んできているのだと思う。

最後にもう一つ補足。
この反核論争において、当初はキレていた吉本も、次第に「反核」側の反論の稚拙さにあきれ、冷静に状況分析を始める。
当時の反核運動の異常な盛り上がりの背景にあったのは何なのか、ということについて、以下のように書いている。

“現在「岩波文化」「朝日新聞」型の正統主義、教養主義、進歩主義は、サブカルチュアの質の優秀さ、量の膨大さから、かつてどの時代とも異った、誰もの想像を超えた規模の浸透力をひっかぶって、追詰められている。そのため経済社会的にも、理念的にも崩壊しつつある。また「岩波文化」、「朝日新聞」型の進歩文学者、旧左翼文学者、保守的な教養主義の文学者もまた、凋落と圧迫と経済的な不安を感じている。……また大衆芸能、大衆文化現象の氾濫と混乱、教育過多と退廃、また学校暴力と家庭の崩壊現象など、どれひとつをとってみても「岩波」「朝日」型の教養主義や旧左翼理念や、正統文化主義で、対応できるような限度を超えつつある。これらの情況に、いわば対応力を喪って、鬱屈の極限に達したソ連型(半アジア型)の進歩主義、左翼主義、正統保守文学者たちが、反動としての倫理の出口を、<反核>に見つけだしたといえる。”

つまり、この反核運動の盛り上がりは、サブカルチャーに追い詰められて出口を喪った岩波・朝日型正統文化主義・旧左翼が最後にそのフラストレーションの捌け口を求めた断末魔の叫びであった、と。
我々の世代からすれば、サブカルチャーとメインカルチャーの転倒というのは当然の事態であるように感じられるし、今の若い世代にとっては、もはやかつての岩波・朝日型の旧左翼的教養主義そのものが冗談のようなものでしかないのだろうけれども、80年代初頭の論壇でこのような立場を取るのが、極めてマイナーな存在であったことがわかって面白い。
もちろん、ちゃんと先が見えていたのは吉本の方だったわけだ。

絶版にしておくのは勿体ない名著であると思うので、多少高くてもやっぱり手元に置いておきたいなあと思いました。

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2008年5月10日 (土)

小ネタ3題

●サイクルメーター
通勤用のクロスバイクにサイクルメーターを取り付けた。
ワイヤレスにしようかとも思ったのだけれども、ワイヤレスは、周辺の電波状況によっては精度が安定しないとかいう噂(デマ?)などをネットでちらほら見かける。
折角速度や走行距離を測るのだから、精度が甘いのは気分が悪いし、そもそもワイヤレスはやはり値段がちょっと高めなので、迷った末に、ワイヤードに。
取り付けてみたら、ワイヤーが邪魔で、思っていた以上に見た目がゴテゴテする。
どうせ見た目重視なんだから、やっぱりワイヤレスにすればよかった。

とは言え、実際に付けてみると、これは想像以上に毎日自転車に乗る励みになる。
職場との往復で毎日の走行距離が10km弱、時間にして30分近くは確実に走る。
月に20日は乗るとして、200km、10時間くらい走ることになる。
冷静に計算してみると結構な運動量のような気がしてきた。
さらに励みにするために、毎日の走行状況をパソコンに記録することに。
年間5000kmくらい走りたいなあと思う。

●夢
半眠半覚の状態で、自分がいびきをかいていることに自分で気づくことがたまにある。
半分は眠ってて何かの夢を見ているんだけど、半分は何となく目が覚めてて、自分が夢を見ていることを自覚しながら、なおかつ同時にいびきをかいていることも自覚している。
それで、「ああ、これはなかなか不思議な状態だなあ」などと半分眠った頭でぼんやりと考えている。
……というような状態に自分がいるという夢を見た。
要するに、夢の中でさらに半分眠りながら夢を見ていびきをかいている。
えー、言い換えると、“今自分は半眠半覚で夢見ながらいびきかいてるなあって思ってる自分”をさらに夢で見たわけです。
しかも、そのとき、たぶん実際にいびきかいてたような気がする。
まことにややこしい話ですいません。

●新調
金に困っている上に、親戚などからのお下がりがたくさんあるので、普段、子供の衣類や身の周りのものを買うことが非常に少ない。
上の息子のものはさすがにもうもらえなくなってきたので、近頃はそうでもないのだけれども、5歳の娘に関しては、姪っ子だけでなく、近所の人や愚妻の友達などからも上等なお下がりが次々と支給されるので、お陰様で衣類などきわめて潤沢にある。
ほとんど何も買わずにすむので、実際、娘のための買い物というのを、日常、全くすることがない。
それ故だろう、娘は稀にモノを買ってもらうことがあると非常に喜ぶ。

こないだは、毎日幼稚園に持って行く水筒がダメになってきたので、買い換えようということになった。
そうしたら、3日前からウキウキし始めて、「あと2回寝たら水筒買う日だ」などと言っている。
で、いざ買ったら、家でもずっと首からぶら下げて、水を飲むのもいったん水筒に入れてから飲んでいる。
また、何ていうモノなのか知らないけど、スイミングの後で濡れた頭にそのまま被るタオル地の帽子状のものがありますね。
あれを買ってやったら、これまた異常に喜んで、毎日寝るとき布団の中でも被っている。

第三者からすれば、モノの有り難みがわかっていい、とか、モノを大事にするのはいいことだ、とかいうことなのかもしれないけれども、自分としては、どうも貧乏くさいような情けないような気もして、ちょっと微妙な気分になっている。

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