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2007年10月 2日 (火)

吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』を読む

これは傑作だ。
1999年刊。
本人もあとがきで「わたしにとって好きな本の1つ」と言っているけれども、吉本思想のエッセンスが、(吉本にしては)非常に平易な言葉で、巧みに凝縮されている。
吉本が口述した内容をまとめたもので、目が悪くなって以降、この手の本が次々と出版されているけれども、これは出色の出来。
図書館でたまたま目についてなんとなく手に取ったのだけれども、手許に置いておきたいからちゃんと買おうと思う。

『言語にとって美とはなにか』以降の成果を下敷きに、言語以前の「内コミュニケーション」から「言語の起源」へとじっくり辿りながら、「心とはなにか」「言葉とはなにか」についての独自の吉本理論を概説し、最終的には、そうした言語論に基づいた文芸批評につなげていこうという趣旨、か。
比較的平易なだけに、細部については食い足りないところも多いけれども、その辺をあまりきっちりやられると今度は難解になるわけで(笑)、この本は非常にバランスがよい。
平易だからといって、この本はすらすら読んではいけない。
行間にあふれるほどの含意がある。
それを極力すくい取っていかなくてはいけない。

現実的に、吉本隆明が残してきたテキストは、まだまだ正当に「解読」されていないと思う。
既に「戦後思想の巨人」的な評価こそ定着しているものの、その思想の全容がきっちり読み解かれるのは、まだまだこれからだろう。
その手がかりや契機になるという点においても、こういう本があるのは非常に意義深いのではないかと思う。
まだ生きているうちに、どんどんしゃべらせてほしい。
少なくともこのような本を読めば、言語の問題ひとつとっても、吉本がいかに壮大なスケールで考え詰めてきたかということが容易にわかる。
そして、かなりすごいところまで辿り着いていることが素人にもわかる。
三木成夫の理論をもっと早くに知っていたら自分もソシュールくらいにはなれたんじゃないか、と嘯く部分が本書にはあるのだけれども、冗談でも、ましてや虚勢でもないだろう。
吉本は自説についてそれくらいの自信と自負を持っているし、実際にそれくらい画期的で独創的だと思う。
吉本テキストを解読し、更に押し進めていくのは、後代の仕事である。

本書全体からすればほんのディティールでしかないけれども、今回個人的に感銘を受けた部分を、以下、自分の備忘のために書いておきます。(こういうところにでも一度整理して書いておくと、意外と忘れないので)

奈良朝以前の旧日本語やオーストロネシア語群(ポリネシア、ミクロネシア、メラネシア等の言語群)は、抽象語が得意でなく、精神の状態を表すにも、具体性のある、身体に関する言葉を用いる。
たとえば、日本語で「腹黒い」とか「へそ曲がり」とか「つむじ曲がり」とか言うように、ポリネシア語でも「腹がわからない」とか「腹が偏っている(偏屈である)」とか言ったりする。
われわれは近代の印欧語を輸入しているから、「腹黒い」というのは「根性が悪い」ということのメタファーであると考えがちであるけれども、それは本来、逆である。
古い日本語においては、「あいつは根性が悪い」という意味を伝えるには、「腹が黒い」という具象的な言い方しかなかった(「根性」という抽象語はなかった)。
もともと抽象語がなかったのだから、抽象思考が苦手なのは日本語や古いオーストロネシア語の特徴であって、日本語で抽象的なことを言うためには、明治以降に作った抽象語を使わなければならない。
スピノザは、「2+2はどうして4になるのか」というようなことを考えて一生をつぶしたけれども、日本人でそういうことした人はたぶんいない。その代わり、粘土をこねて「どうやったら美的な茶碗をつくれるか」ということで一生をつぶした人はいるだろう。

……というような具合で、この本の前半はいろんなところで何度も繰り返し語っている内容だけれども、後半は、枕詞の解釈とか、折口信夫と琉球語とか、個人的にあまり読んだことのなかった各論がいくつもあって、そういう意味でもたいへんスリリングでした。
ともあれ、吉本隆明をとりあえず何か1冊……という向きにはお薦めです。

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