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2007年10月16日 (火)

貧乏論(2)

貧乏の問題について、内田樹がしばらく前のブログで、非常に明快で、なおかつたいへん納得のいく定義をしていたので、以下、抜粋・要約。
「貧乏」と「貧困」はどう違うか。

 貧困は経済問題であるが、貧乏は心理問題である。数字で扱える問題とは次元が違う。
 日本ではおおざっぱに世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別される。だが、年収2万ドル弱というのは、世界的に言うと、かなり「リッチ」な水準である。日給240円のニカラグアの小作農は年収87600円である。「絶望的な貧困」と申し上げてよろしいであろう。この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子供はその境涯から脱出することがほとんど不可能だからである。
 一世帯年収200万円はその意味では「絶望的な貧困」とは言えない。その世帯の支出費目に教育費が含まれており、収入が主に企業内労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的資質や芸術的才能を開発したり、業務上の能力を評価されて昇給昇進するチャンスが残されているということを意味するからである。
 だから、日本で社会問題になっているのは貧困ではなく、貧乏であると考えた方がよい。
 屋根のある家に住み、定職を持ち、教育機会や授産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態は「貧困」とは言われない。あちらにはベンツに乗っている人がいるけれど、うちは軽四である。あちらにはGWにハワイに行く人がいるのに、うちは豊島園である。あちらにはシャトー・マルゴーを飲んでいる人がいるのに、うちは酎ハイであるという仕方で、所有物のうち「とりあえず同一カテゴリーに入るモノ」を比較したとき、相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。

なるほど。非常に明快。
今後は、この定義に従って、「貧困」「貧乏」を使い分けることにする。

 近代以前には、この種の貧乏は存在しなかった。農民が大司教の衣装と自分の衣服を比較して恥じ入るとか、猟師が王侯貴族のような城館に住んでいないことを苦しむというようなことは起こらなかった。生物学の用語を用いていえば、「エコロジカル・ニッチ」(生態学的地位)が違っていたからである。鼠が象を見ても「あんなに大きくなりたい」とは思わないのと同様である。

 貧乏とは、私が端的に何かを所有していないという事実によってではなく、他人が所有しているもの(それは私にも等しく所有する権利があるはずのものである)を私が所有していないという比較を迂回してはじめて感知される欠如である。
 第二次世界大戦が終わったあとの敗戦後の日本はたいへんに貧しかったけれども、人々の顔は総じて明るかった。それは日本人全員が同程度に貧しかったからである。「共和的な貧しさ」(関川夏央)のうちに人々は安らいでいた。私は1950年の生まれであるけれど、50年代までの日本社会の穏やかな空気をまだ覚えている。
 そのあと日本は「貧困」から脱して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えた。豊かさに差が生じたからである。
 1950年に六畳一間の貸間に住んでいる一家はまだ少なくなかった。だから、住人たちもそのことを深く恥じてはいなかった。それは偶有的な不運によって説明可能だったからである。だが、1960年には、そのような家に住むのは例外的な少数になり、親たちは自分の子どもがそのような家に足を向けることを禁じた。貧しいことは能力や意欲の欠如とみなされるようになったからである。そのようにして、貧乏は「共和的」であることを止めた。

 渡辺和博が『金魂巻』で「○金」「○ビ」という二分法で、「ビンボくさい」というのはどういうふるまいを指すのかを論じてベストセラーになったのはバブル直前の1984年のことである。このとき、もはや「貧困」は社会問題ではなくなっていた。問題なのは「貧乏」であり、人が「貧乏」であるかそうでないのかを識別することには、この時点ですでにかなり複雑な手続きを要するようになっていた。
 年収の多寡はもうここでは主要な識別指標ではなくなっている。「○ビ」の特質とされたのは、「他人の所有物を羨む」というメンタリティそれ自体だったからである。クリエイティヴでイノベーティヴな「○金」の人々は自分の規範に従い、自分の欲望に忠実である。一方、模倣的で追従的な「○ビ」の人々は他人の規範を模倣し、他人の欲望に感染する。

えー、ほとんどまるごと引用してますが、長くなったついでにもう少し。

 貧困はとりあえず前景から退いたが、貧乏は日を追って重大な社会問題となっている。それは貧乏が記号的なものだからである。
 貧乏は金の不足が生み出すのではない。貧乏は「貧乏コンシャスネス」が生み出すのである。誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。そして、たいへん困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。

 当然ながら、どれほどものを買っても、「他人が有しているもの(それゆえ私にも所有権があると見なされているもの)」を買い尽くすことはできない。市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄える。外形的にはきわめて富裕でありながら、なお自分を貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者である。だから、企業もメディアも、消費者に向かっては「あなたは当然所有してしかるべきものをまだ持っていない」という文型で(つまり、「あなたは貧乏人だ」と耳元でがなり立て続けることによって)欲望を喚起することを決して止めないのである。ナイーブな人々はそのアナウンスをそのままに信じて、おのれの財政状態にかかわらず、「私は貧乏だ」と考えて苦しむことを止めない。そのようにして資本主義は今日まで繁昌してきた。

 「私は貧乏だと思って苦しむこと」は(定義上からしても)人間をあまり幸福にはしない。できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う。だが、「私はすでに十分に豊かである」と考える人はたいへん少ない。もちろん、それには理由があって、そんな人ばかりになったら、消費は一気に冷え込んでしまうからである。

 他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる、「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えないが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。自分はいったいどのようなものを食べたいのか、どのような声で話しかけられたいのか、どのような肌触りの服を身にまといたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても、「貧乏」に苦しむことはない。

 貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁昌するであろうと私は思う。
 まあ、それも仕方がないか、というのが私の考えである。私たちの社会を住み易くするための原理として、とりあえず近代市民社会と市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまいと私は思っている。

このとおり内田樹の書いているのは、簡単にまとめると、「貧乏」とは金の不足ではなく「貧乏コンシャスネス」が生み出す心理問題である、ということになる。
そして、その論理的帰結として、内田樹は、『近代市民社会と市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまい』と結論づけているけれども、それは論理の流れとしてそうなってしまうということであって、恐らく本音のところは、『できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う』という部分だと思う。
できればそのように生きる方が、理想としては美しい。

やり方は簡単であって、要は、「近代市民社会と市場経済」から「降りて」しまえばいいのである。
例えば、うちの田舎の伯父母などは、インターネットなど意味も分からないし、テレビもニュースとのど自慢くらいしか見ない。
毎日田んぼや畑の世話をするくらいで、世間にどのような「欲望」が流通しているかといった情報から限りなく疎外された生活なので、「他者の欲望」に極めて感染しにくい状況で暮らしている。
収入はわずかな年金のみだけれども、米も野菜も自前だから、喰うに困ることはない。
いや、現実にはそれでもかなりの「貧乏コンシャスネス」を抱いているようだけれども、つまりは、このような生活か、願わくば更に情報から隔離された環境に身を置けばいいのである。
理屈ではそうなる。

しかし、だ。
そんなことが可能か。
いや、そもそも、可能であったとしても、もはやそんなことを現実的にしたいと心から思えるか。
無理だ。
可能でもないし、したいとも思えない。

近代市民社会と市場経済から「降りる」ことなく、なおかつ「貧乏コンシャスネス」を持たずに生きる。
そんな風にはいかないものか。
内田樹の論理は明快で説得的だけれども、そのような方法までは教えてくれない。

そうした離れ業に挑むには、内田樹を超える論理的跳躍が必要と思われる。

(つづく)

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コメント

面白いね。貧乏論。私はアメリカの中でも生活費が最も高いとされている地域、そして高学歴者(高収入者)が密集して住んでいる地域に住んでいるため、相対的に「お金があんまりない&低学歴」のように感じます。でも、黒人のホームレスも街中にあふれていて、そんな人からみたら私は大金持ちもいいとこです。でも、どんなにお金があっても、将来に不安を強く感じる(国民健康保険がなかったり雇用が安定してないから)。

今の自分を貧乏とは思わないけれど、貧乏になって困るかもしれない、という不安が私は貧乏だから、という気持ちにさせることがあるかもしれない。

投稿: ショーエ | 2007年10月17日 (水) 14時55分

格差社会の本家だもんなあ、そっちは。
平均的なアメリカ人って、老後とかの生活資金はどうやって調達してんの?

投稿: riki | 2007年10月18日 (木) 01時40分

ソーシャルセキュリティという政府の年金システムがあって、給料から天引きされます。あと、雇用ベースの 401K があります。税前の給料から自分が決めた一定金額 (上限もある) を天引きして、公債やファンドに投資します。65才(か60歳)になる前にお金を引き出すことも可能だけど、ペナルティがある。定年退職の年齢に近づいたら、リスクの高いファンドから、安定型の投資に切り替えることができます。でも、株投資の基礎知識がなかったり、株市場が退職時に不利な状態だと、損をすることもあります。教職関連の人も同じようなシステムです。403 とかそんな名前だった。個人経営の人などは、金融機関から同じような年金目的の税金面で優遇措置のあるファンドを購入することができます。でもある程度まとまったお金や収入のある人でないと年金は難しいかな。

だから老年のホームレスが公園の奥で密かに暮らしているという悲しいケースがよくあります。まじめに働いてきたけどお金がなくて子供に迷惑もかけたくないというアジア系の老人。こういう人たちを嫌がって公園からホームレスを一掃したいという人もいて、サンフランシスコでは大きな議論になってます。もちろん危険なホームレスもいるんだけど。

投稿: ショーエ | 2007年10月18日 (木) 07時23分

あとですね、老人ホームが高いです。月額3千から6千ドルというのは普通。そしてよいところは何年も前から予約をしておかないといけないので、ギリギリまで自分で生活してから施設に入る、ということができません。誰かの口ききがあればそういうこともできるけど。

投稿: ショーエ | 2007年10月18日 (木) 07時26分

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