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2007年10月24日 (水)

東京48時間3本勝負

18日(金)。
休みを取って、午後から上京。
このタイミングであるからして手土産には「赤福」しかあるまいと探すが、手に入らない。
前日までなら売っていたらしい。無念。
あまり早く買いすぎると固くなると思ったのだけれども、冷凍して日付を書き換えておけば何ら問題はないというところまでは気が回らなかった。
仕方がないので、虎屋のういろうにする。
そっちのが美味しいし。

1週間くらい前に子供から風邪をうつされ、ずっと喉の痛みがあった。
上京する頃にはちょうど治るだろうとタカをくくっていたら、出発前日から水っ洟がひどくなり、微熱が出た。
当日は水っ洟が青洟に変わり、喉の痛みが強くなっている。
熱はあるのかどうか微妙な感じだけれども、計測すると意識してしまうので、敢えて体温計は用いず、熱は出ていないものと自分に言い聞かせて出発。
これから48時間3本勝負が始まる。熱など出している場合ではない。

こだまに乗ってのんびり上京。
たっぷり読書できると思っていたのに、車中ほとんど眠ってしまった。
同じ風邪で愚妻が処方された漢方薬を適当かつでたらめに飲んでいるせいか。

1本目。
7時半に都内某所のフレンチで、磯崎さん、chinsan と待ち合わせ。
磯崎さんというのは、学生時代のサークルの先輩なのだけれども、この度、なんと河出書房新社の「文藝賞」を受賞された。
古くは田中康夫「なんとなくクリスタル」とか、最近では綿矢りさ「インストール」とかの、あの「文藝賞」である。
今発売中の「文藝」に掲載されていますから、みなさん是非お買い求めを。
いや、来月単行本になるそうなので、そちらを是非。
『肝心の子供』磯崎憲一郎、です。

前の週に受賞の事実を知って、じゃあ土曜日に上京の予定があるからせっかくなので1日出発日を早めてぜひ一献、という具合にアポイントが進んだ。
chinsan もぼくも、磯崎さんが文章を書いているのは知っていたけれども、そこまで真剣に書いておられるとは知らなかったから、いやあたまげました、ははは、というような話をする。
かつてはこの3人で、頻繁にメールで議論を交わし合ったりもしていたし、また、磯崎さんは当ブログもよくのぞきに来てくれていたのだけれども、最近音沙汰ないと思っていたら、小説を書いておられたのであった。
延々5時間に渡り、今回の作品を執筆されるに至った顛末やら、授賞式の様子やら、授賞式に集まった大勢の著名人とのやりとりやら、ご近所に住む横尾忠則との邂逅やら等について、興味深い話を聞かせてもらったのだけれども、磯崎さんは相変わらずの強烈なキャラであって、それは常にどのような場においても(たとえ文藝賞の授賞式においても)そうなのだということがよくわかって大変楽しかった。
とにかくキャラが立っているから、考えてみれば、有名人になるには向いていらっしゃると思う。

「思春期にロックを聴いてない奴はダメだ」というのが磯崎さんの持論である。
磯崎さんはこのように小説家になってしまったし、chinsanは編集者だし、お粗末ながら私も売文業にかかわっていた時期がある。しかし、我々が所属していたのは、文芸サークルではなくて、音楽サークルなのであります。
最後は「ボルヘスとガルシア・マルケスを読め」とのご指導を賜り、深夜過ぎにお開き。
磯崎さんは酒を飲まないが、chinsan と私は、ビール、シャンパン、ワインと順調に進んで、すっかり風邪のことも忘れていたのだけれども、気がついたらやはり喉が痛い。
夜は、chinsan宅に泊めていただく。

19日(土)、2本目。
お昼から、京王プラザにて同僚のケニア人の結婚披露宴。
最後にコブクロの「永遠にともに」を歌うからギターを弾いてほしい、という話はずいぶん前から聞いていた。
しかし、その曲を初めて聴いたのは1週間前である。(コブクロという名前は知ってたけど、コミックバンドか何かだと思ってた)
練習したのは3日前に1度、1時間程度やっただけで、しかも、そのときになって初めて、サビでハモってほしいと言われた。
また、スピーチをやらされるということもずいぶん前から聞いていた。
しかし、それが乾杯前のトップバッター、すなわち主賓挨拶であるということを知ったのは2日前である。

chinsan宅ではいつもながら快適な環境と快適な朝食を与えていただいたのだけれども(chinsann、いつも本当にすいません)、スピーチのことが気になってよく眠れなかった。
幸い鼻水はかなりおさまっているものの、喉の痛みは相変わらず。
どきどきしながら10時過ぎに会場へ。

新郎が写真撮影に入る前に、会場で歌のリハーサル。
これが最後の練習のチャンスだったのだけれども、結局サウンドチェックに時間がかかりすぎて、かろうじて1回合わせただけで時間切れ。
いや、歌はまあなんとかなるだろう。
問題はスピーチだ。

12時開演。
席は(主賓だから)新郎新婦の目の前。
新郎のケニア人は、日本国内にも幅広い人脈を持つ。
隣りに座っている人は、地方のとある航空会社の社長である。
その隣は、都内に数十軒の店を持つ実業家らしい。
そういうVIP達を差し置いて、このおれが主賓スピーチ。
「若輩者」という言葉が頭を縦横無尽に駆け巡る。
今のおれにこれほど相応しい言葉もあるまい、と。

披露宴でスピーチした経験は何度もあるけれども、しらふの段階でやるのは初めてだ。
たいていは「友人代表」とかいう立場だから、周りには一緒に来ている友人達ががやがやいてくつろいでいるし、話す頃には、会場にも一定のノリができている。
しかし、今回は違う。
会場には、新郎以外に1人の知り合いもおらず、トップバッターである故、場のノリもつかめない。
て言うか、自分のスピーチによってノリを作り出さねばならないのだろう。
どの程度フォーマルにやるべきなのか、どの程度までカジュアルであっても許されるのか、その辺が全く計り知れない。
というような事を考えていたら、案の定ガチガチに緊張して、肝心なことを1つ言い忘れる。
尻上がりに緊張が増し、最後の方は脚まで少し震えているような気がした。
出番が早く終わるからあとは気楽だけれども、後味が悪くてなかなかくつろげなかった。

その後は、シャンパン、ビール、白ワイン、赤ワインと順調に進んで、次第にいい気分に。
結婚式は先月ケニアですまされていて、そのときの様子がDVDで会場に映される。
ケニア人の友人のスピーチや新婦の親族の言葉なども非常によくて、たいへん感じのいい披露宴だ。

最後、新婦から両親への手紙、新郎からのお礼の言葉といったクライマックスの直前。て言うか、そのクライマックスの入り口として、新郎の歌「永遠にともに」が披露される。
そこでギターを弾き、サビをハモるのが私の次のミッションである。
ギター伴奏までする主賓っていうのもどうなの?っていう気もよく考えたらするが、この頃にはもうお酒が進んで、すっかりいい気分になっている。
緊張ゼロ。
音響も、新郎が準備してくれたオベーションのエレアコも、非常に具合がよくて、たいへん気持ちよく演奏できた。
ただし、ハモりは完全に失敗。
もともと自分には無理のあるキーで、ただでさえ裏声を出さなければならないのに、風邪で声がちゃんと出ない上に、酔っぱらっている。
最初の1音を見失ったら、全てがとんでしまった。
酔った頭で瞬時に、これは無理に声を出してはいけない、と判断し、悪いけど新郎1人で歌ってもらうことにした。
あと、たぶんテンポもちょっと遅かったな。
緊張するとテンポはたいてい速くなるんだけども、酔ってると遅くなるのかもしれない。
でも、ギター自体はたいへん気持ちよく弾けたから、おれ的にはまあよしとする。
3時半にお開き。

そのまま徒歩で、予約してあったビジネスホテルへ。
披露宴の式場は新宿西口のホテルで、宿泊先のビジネスは厚生年金会館の近く。
学生時代、厚生年金ホールへ行くには、何の躊躇もなく新宿駅から歩いていたので、そんなに遠くないイメージがあった。
だから、当然歩いていくものだと考えて、靖国通りをぼちぼち歩き始めたが、いつまで経っても着かない。
結局30分も歩く羽目になり、風邪ひきの酔っぱらいでもある故、ぼろぼろに疲れ、ここで体力を使い果たす。

しばし休憩の後、再び新宿東口に戻り、6時に「社長」及び「バロちゃん」と待ち合わせ。

3本目スタート。

バロちゃんはこの10月から生駒を離れ、東京に転勤になった。
その連絡を受け、それじゃあ土曜日に上京の予定があるので、せっかくだから異動祝いに是非一献、という具合で飲むことになった。
東京にいる人々全員に声をかけたが、直前に「さんぽん」さんもキャンセルになり、なんだかんだで結局この3人。
適当な居酒屋を見つけ、披露宴の酔いもさめぬまま、とりあえずビールでスタート。
スピーチと演奏のストレスからも解放され、気遣い不要の気楽なメンツでもあり、風邪と疲れも忘れて、また酒を進める。

そこでふと気がついた。
社長とは割と頻繁に会っている。
先々月も東京で会ったばかりだ。
バロちゃんとも、結構会っている。
年に1度や2度は必ず顔を合わせる。
しかし、この3人だけで飲むというのは、相当に懐かしい感じがする。
そして、よくよく考えると、この3人が東京で飲むというシチュエーションは、実に20年ぶりなのであった。

20年前、すなわち我々が20歳のとき。
奇しくもあの時も新宿東口であった。

社長はその時入った店も覚えていた。
「オランダ屋敷」というチェーンの居酒屋だったらしい。
靖国通りに面した雑居ビルの、6階とか7階とか、かなり上の方にあった。ような気がする。
まだ酒の飲み方もよく心得ていない若造3人は、そこで熱燗をしこたま飲んでいい感じに出来上がり、当時、落合に住んでいたぼくのアパートへ、西武新宿線に乗って帰ったのであった。
帰る道すがら、泥酔した社長は、我々の前を歩いていたサラリーマンのカバンをいきなりぐいっとつかんだ。
バロちゃんとぼくは、すいませんすいません、と代わりに謝ったが、その謝っている2人もヘラヘラヘラヘラ笑っている。
サラリーマンは、酔っぱらい学生3人の愚行に怒りもせず、「楽しそうだねえ」と笑ってすませてくれた。
時代はバブル前夜である。
社長はぼくのアパートに着くと、冷蔵庫の製氷皿から氷を出して、花咲じじいのように床にばらまき始めたのだった。

そのようなことがあったのが、ちょうど20年前なのである。
その時は、ぼくが東京に住んでいて、社長とバロちゃんは京都にいたのだ。
今は、社長とバロちゃんが東京在住で、自分がおのぼりさんになっている。

そうした巡り合わせの妙に3人で少し感動しながら、旧交を温める。
次にこのメンツがここで飲むのは60歳になったときではないか、という話になったら、社長は、60まで生きる自信がない、と言った。
しかし生きていたらお金持ちになっているだろう、とも。
社長は、社長になって以来、週に14回くらい飲み会があるそうだ。
今週は、われわれとこういう臨時の飲みが入ったので、15回になったかもしれない。

結局、1時半まで、延々7時間半飲み続ける。
昼の披露宴から考えるなら、13時間半だ。

2時にホテル帰着。
寝る前に、余っていた漢方薬を水で飲んだら、横になった途端、キリキリとくる胃痛に襲われる。
自分は腸が弱く下痢症ではあるが、胃が痛むことは滅多にない。
疲れ切った胃に、自分が処方されたわけでもない適当な漢方薬を変なタイミングで流し込んだのがいけなかったのか、それとも激しい飲酒後に飲んだのがいけなかったのか、薬は関係なく単に暴飲暴食の因果応報なのか、とにかく2時間ほど痛みに悩まされ、明け方近くまで眠れず。

翌朝は8時起床、9時チェックアウト。
胃痛はおさまっているが、さすがに全身がだるい。
風邪もまだぬけない。

帰りもこだまで爆睡しつつ家に向かい、午後3時頃帰着。
家では息子が1人で留守番していて、自分の帰りを待っていた。
2日も留守にした負い目もあり、また、たいへんいい天気でもあったので、風邪と疲労でかなりきつかったけれども、息子の求めに応じて公園で小一時間ほどキャッチボール。
夜はさすがに酒を抜いた。
何ヶ月ぶりかの休肝日。

かくして東京48時間3本勝負、無事こなしたのであります。

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