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2007年10月15日 (月)

貧乏論(1)

うちは貧乏だ、金がない金がない、と、愚妻と2人して口癖のように言ってばかりいるので、いつの間にやら2人の子供達にも貧乏人の子供としての自覚を植え付けてしまったらしく、何かというとすぐに「うちはびんぼうだから」と言うようになった。

実際、我が家の家計は非常に厳しい。

愚妻は金がないのを苦にする割には、仕事をしようという気はないらしく、年収ゼロの専業主婦をもう8年も続けている。
月々の収支は、常に「少し赤」~「大幅に赤」であって、通帳の残金がマイナスにならない月はほとんどない。(銀行には、月々30万までは自動的に無担保で借金できるという便利なシステムがある)
マイナスになると、メールでアラートが来るようにしてあって、ボーナス時にストックしておいた「非常時用資金」から補填してしのぐ。
だから、ボーナスはその決して少なくない部分が「非常時用資金」のアカウントへ直行するのであって、6月も12月も、特に楽しいことは起こらない。

これからはさらにどんどん子供にも金がかかるようになるだろう。
この状況をどう打開していけばよいのか、というのは、それなりに大きな問題なのだけれども、かと言って、急に金持ちになれるわけでもない。

パートでもいいから愚妻が少しは働けば金銭的にはかなり違うとは思うけれども、そうすると、さらに家事の分担を要求されるのは必至であろうし(今でも少しはやってますよ。念のため)、忙しい忙しい等という愚痴の聞き役にもならねばなるまい。
本人が働きたいと思うのでなければ、無理に仕事してもらっても、それが幸福な状態を生み出すということは考えにくい。

かと言って、宮仕えの身であるからして、自分の収入が劇的に増えることはあり得ない。
世帯収入を増やす方策は、現実的には、ほぼないと言ってよい。

だとすれば、金のないことを嘆いたり、金持ちになろうとしたりするのではなく、貧乏を楽しめるようになる、貧乏でいいじゃないかと思えるようになる方向へ、意識を改革していくのが最もよりやり方ではないかと思う。

いや、貧乏だ貧乏だと自分では言っているけれども、実態として我が家は、決して世間様に向かって堂々と「貧乏」を名乗れるほどの低所得ではない。
世間一般の同年代との比較の上で見た自分自身の給与収入はもちろんのこと、世帯収入としても、(うちは私の給与所得=世帯の所得ですが)、世間全般からすれば、上中下の中、松竹梅の竹くらいのランクにはあるだろうと思う。
確かに、学歴だけはそれなりに高いせいか、学生時代の友人知人などはほとんど皆が高給取りになっていて、普段、そういう人々との比較においてしか自身の境遇を考察しないので、日常の意識としては、上中下の下、松竹梅の梅としての自覚が強いけれども、世の中全体に向かって胸を張って貧乏だなどと言ったら石が飛んでくるに違いない。

実際、金がない金がないと言いながらも、月々はちゃんと積立もしてるし、子供に習い事もさせているし、発泡酒じゃなくてビールしか飲まないし、4年前には新車も買った(もう新車じゃないな、それは)。
そんなに高望みしなくてもこれで十分じゃないかと言われれば、反論はできない。
いや、平均的な給与所得なのに、一馬力では妻一人子二人の4人家族でも月々赤字になってしまう日本社会ってどうなの?って気もするけど。

て言うか、そもそも貧乏とは何なのか。
客観的にはとても堂々と貧乏を名乗れる資格などない程度の収入はあるにもかかわらず金がない金がないと嘆いているのは、そもそも心構えが悪いのではないか。
いや、単純に持ち金が多い少ないの問題で言うのならば、いったいどのくらいの金があれば、「もっとほしい」と思わずにすむのか。
もうお金なんていらないや、って思えるほどのレベルにまで達することがどうせできないのならば、年収300万と年収2000万の差はどれほどのものなのか。

金持ちであることを楽しむのはたやすい。
しかし、真の金持ちというのは、もはや金のことを全く気にしていない状態であるのが本当であって、金がたくさんあることを喜んでいるうちは、「もっとほしい」という心理的な飢餓状態に常時移行可能であるという点で、貧乏人と大きな差がない。

逆に、貧乏であることを嘆くのもまたたやすい。
それは多くの人々が毎日やっていることだ。

であるならば、貧乏であることを楽しめるようになれば、それが勝ちなのではないか。
「もういいや、これくらいで十分だ」と思えれば、人生は穏やかで平和である。
負け惜しみでなく「もういらないや」と感じることができるのであれば、それはもはや金のことを全く意識する必要のない大金持ちとも大きな差がない。

年収300万の人が、「もういいや、これくらいで」と思えるようになるのは、年収2000万の人がそう思えるようになるのよりも、恐らくかなり難しい。
しかし、年収300万の人がそのように思えるようになるのであれば、その達観は、年収2000万の人の達観よりも、ずっと強靱で深みがあるはずである。
辿り着くのは大変かもしれないけれども、300万の方が、より高いところへ辿り着けるはずだ。
うーん、よかった、貧乏で。

(つづく)

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コメント

> いや、平均的な給与所得なのに、一馬力では妻一人子二人の4人家族
> でも月々赤字になってしまう日本社会ってどうなの?って気もするけど。

という認識はひじょうに正しい。

税制とか各種控除・手当の制度設計(子育て支援とか)とか、国際的な無償化の努力義務にもかかわらず費用が大きくなる一方の教育制度(とくに大学)とか、シャビーな政府なんですよ>日本。小さすぎる政府。

数値で表しにくいのであまりいわれないけども、日本国民の生活水準は先進諸国との実感的な比較でいうと、低い。フランスの暴動一歩手前の失業移民家庭と日本の一般家庭は生活水準あんまり変わらないかもと、ふと思う瞬間あり。

英独仏の水準には明らかに届いてなくて、アイルランドとかポルトガルとかイタリア(これらは英独仏に出稼ぎに出る国ですけども。そして貧富の差がひどいので有名)と横並びぐらいなんじゃないかと思います。

企業は稼いでいるのにね。

お金を使わなくても幸福に暮らせるというのはそのとおりだけど、それで貧富の差を正当化するわけにはいかんですな。満足するには早すぎる。と社会学者は考えまする。

投稿: ushiro | 2007年10月16日 (火) 03時15分

貧乏でも心が満たされてれば幸せ・・と思える社会では、どうもないように思います。貧乏の連鎖から抜け出すことが、あまりに困難です。貧乏でも幸せと思えるのは希望があるからではないか?と、庶民の私は思います。庶民とは言え、私たちは、やっぱり、安定したとこにいます。とも思います。

投稿: ふより | 2007年10月16日 (火) 22時08分

→ ushiro
なるほど。実感的に日本の生活水準が先進諸国より低いというのは、まあ誰もが同意するでしょうな。年収の多寡と物価との関連、っていうだけでなくて、対時間の労働単価みたいな視点も入れると、さらに印象悪いんじゃない? 同じ年収500万でも、毎日深夜まで残業してるのと、きっちり定時に帰ったりシエスタまであったりするのとでは、全然違うし。特にヨーロッパ勢とは、その辺勘案すると相当差がある気がするなあ。
> 企業は稼いでいるのにね。
欧米の会社組織って、英語ではcompany っていうくらいで、根本的な発想は、みんなで集まって金もうけして、稼いだ金はみんなで分ける、っていうイメージじゃないのかね。外資系の金払いの良さは、根本がそういうとこにあるからじゃない? 日本はやっぱり社長様に奉公してご褒美を頂戴するっていう意識だから、上もそういうつもりで経営するよな。結局日本は、そういう面でも民度が低いっちゅうか、民主主義が根付いていないっちゅうか。
> それで貧富の差を正当化するわけにはいかんですな。
いやいや、そういうつもりはないよ。本論は、貧富の差を形而上的に超越しようという試みです(笑)。

→ ふより
いや、貧乏だと幸せになれない、っていうのだと、ホリエモンみたいな「金さえあれば何でも出来る」っていう拝金主義の裏返しになっちゃうと思うのよ。貧乏でも金持ってても、そういうこととは関係なしに幸せになれなきゃいかん! その辺のことは、また続きで書ければいいなと思ってます。

投稿: riki | 2007年10月16日 (火) 23時15分

とりあえず、印税で家計を補填するという方策を、積極的にオススメします。

投稿: chinsan | 2007年10月17日 (水) 00時56分

お初です。私も印税による補填政策に賛成です。きょう『日本の下層社会』を買いました。

投稿: jimbo | 2007年10月17日 (水) 22時20分

がんばります(笑)。ところで、jimboさんはどなた??

投稿: riki | 2007年10月18日 (木) 01時33分

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