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2007年10月

2007年10月31日 (水)

考え中です

「考え中」という言葉がどうも気に入らない。
いや、まだ日本語が未熟な幼児なんかが言ってるとかわいい感じがして、そういう意味では好きなのだけれども、いい大人が何の躊躇もなく普通に「考え中です」とか言うのを見ると、それはちょっといかがなものかと思う。

初めて気になったのは、小学校3年生の時だったと思う。
どういうわけかかなり鮮明に覚えている。
授業中、先生の発問に対して、指名された女の子が、「考え中です」と答えた。
それはヘンだろ、と思った。「まだ考えてます」とか「考えてるところです」ならわかるけど、「考え中です」はおかしい。
そんじゃあ、「食べているところ」は「食べ中」か? 「向かっているところ」は「向かい中」か?

その後、かなりの同級生達が「考え中です」という言葉を使うのに気付いた。
当然先生は訂正するものと思ったのだけれども、直そうとしない。
でも、少なくとも当時、大人の口からその言葉を聞くことはなかったと思う。

長じて自分自身が大人になった。
われわれ世代がそのまま使い続けたのか、いつの間にやら「考え中」は、かなり普通に耳にする言い方になっているように思う。
最初はわざとふざけて使っているのかと思ったけど、どうやら違うらしい。

グーグルで「考え中」を検索すると、1,670,000件のヒット。
うーむ。

あ、それとも、ナニか? 「考え中」の「考え」は、動詞の連用形じゃなくて、名詞の thought であって、「食事中」とか「準備中」とかと同じ使い方だ、とでも言うのだろうか。
「食事の途中」や「準備の最中」というのはわかるけど、「考え」の最中っていうのはおかしくないか?
それなら「思案中」ではないのか?

おれ、間違ってます?

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2007年10月29日 (月)

何者? 笠辺哲『バニーズ』『フライングガール』を読む

マンガです。
左欄のリストを参照。

調査したところによると、1975年生まれらしいので、やや遅咲きデビューではあるけれども、しょっぱなからこの完成度の高さと落ち着いた作風は何だ?
絵は、水木しげるの弟子筋風と言うか何と言うか、確信犯的な昭和レトロ風。絵柄だけなら後期の高野文子のようなニュアンスもあると思う。
星新一的と言うか、藤子不二雄的というか、ああいう牧歌的で、レトロフューチャーなSF設定にのせて、大人のウィットとユーモアを混ぜ込み、淡々と、のんびりとした小品を描く。
デビューまでの経歴はどうなっているのか。
この肩の力の抜けた軽やかさや、既に達観しているかのような枯れた味わい、手慣れた構成力は何だ?

特にネームのセンスが絶品。
押しつけがましさはまるでないし、人の人生に大きな影響を与えるようなイデオロギーもない。あくまでも絵の雰囲気とネームのよさと気の利いたウィットだけで読ませるマンガだと思うけれども、その軽やかさが気持ちよくて、いつまでも読んでいたくなる。

短編集『バニーズ』、『フライングガール』の①及び②と、現時点で発行されている3冊全部を一気に読んだ。
キャラ作りのセンスも大好き。
『フライングガール』の磯貝さん、とってもキュートだ。トッド博士の突っ込み芸も絶妙。
2巻で完結してしまったのはもったいない。
もっと読みたい。

何者!? 笠辺哲!

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2007年10月26日 (金)

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』を読む

評判どおり、実におもしろかった。
後半はだんだん話が複雑になってきて、図解を見ながら何度も読み返してしまったけれども、分子生物学について全く知識のない自分のような人間にも普通に理解できるように丁寧に書かれている。
何より文章がいい。
ミステリー仕立てと言うか、ドラマ仕立てと言うか、全体がたいへん周到に構成されていて、極めて論理的に話が進んでいく。
その全体の整合感と言うか、かっちり、きっちりとした作りが、読んでいて気持ちいい。

養老孟司なんかにしてもそうだけれども、理系でもほんとに優秀な人というのは、文章も巧い。
でもって、やっぱ理系だからか、論理構成がすっきりしていて、歯切れのよい文章を書く。
この章では何を書こうとしているのか、とか、この一節を書く目的は何か、とか、そういう基本的な構成が常にきちんと意識されていて、本来の趣旨を踏み外すことがないので、すっきり読める。
吉本隆明だってもとは理系だ。
吉本の文章が難解なのは、独特の詩的表現が含まれるからであって、言うまでもなくその論理構成は、何人の批判をも寄せ付けないほどに強固なものだ。

この福岡伸一の場合は、語彙も文芸的だし、今どきこんなドラマ仕立ての読み物にまとめてあったりする趣味からしても、かなり文系的な資質を持っているように見えるけれども、全体の質の高さと抜群のおもしろさを支えているのは、やはり論理の明瞭さだと思う。
文芸的な技量があっても、理系の人は、文体や語り口の妙だけで読ませるようなタイプのものは、やはりあまり書かないように思う。

いや、そもそも、文系とか理系とか、世間は簡単に人種を2つに大別してしまうけれども、本来は両方出来るのが本当であって、真に優秀な人はどちらもいける。
本来そうでなくちゃいけない。

人間の体が分子レベルでどうなっているのかとか、宇宙の果てはどうなっているのか、といったようなことは、文系も理系も関係なく誰もが一度は興味を持つのであって、高校で文系を選択したがために、次第にそのようなトピックから切り離されていって、気がつけば「文系の私にはわからないこと」として整理してしまっているのは惜しい。
逆に、理系では、文芸書など年に1冊も読まないというようなタイプが量産されていく。

て言うか、最近は文系の学生でも全く本読まないな。
文系って言うより、無系、みたいなの、多いよな。

この本にも、日本のアカデミズムの旧弊に嫌気がさして渡米した、というような記述があるけれども、現在の日本のシステムでは、養老孟司やこの福岡伸一のような、言葉本来の意味で知識人と呼べる学者はもはや育たないのではないかという気がしますが、どうでしょう?

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2007年10月24日 (水)

東京48時間3本勝負

18日(金)。
休みを取って、午後から上京。
このタイミングであるからして手土産には「赤福」しかあるまいと探すが、手に入らない。
前日までなら売っていたらしい。無念。
あまり早く買いすぎると固くなると思ったのだけれども、冷凍して日付を書き換えておけば何ら問題はないというところまでは気が回らなかった。
仕方がないので、虎屋のういろうにする。
そっちのが美味しいし。

1週間くらい前に子供から風邪をうつされ、ずっと喉の痛みがあった。
上京する頃にはちょうど治るだろうとタカをくくっていたら、出発前日から水っ洟がひどくなり、微熱が出た。
当日は水っ洟が青洟に変わり、喉の痛みが強くなっている。
熱はあるのかどうか微妙な感じだけれども、計測すると意識してしまうので、敢えて体温計は用いず、熱は出ていないものと自分に言い聞かせて出発。
これから48時間3本勝負が始まる。熱など出している場合ではない。

こだまに乗ってのんびり上京。
たっぷり読書できると思っていたのに、車中ほとんど眠ってしまった。
同じ風邪で愚妻が処方された漢方薬を適当かつでたらめに飲んでいるせいか。

1本目。
7時半に都内某所のフレンチで、磯崎さん、chinsan と待ち合わせ。
磯崎さんというのは、学生時代のサークルの先輩なのだけれども、この度、なんと河出書房新社の「文藝賞」を受賞された。
古くは田中康夫「なんとなくクリスタル」とか、最近では綿矢りさ「インストール」とかの、あの「文藝賞」である。
今発売中の「文藝」に掲載されていますから、みなさん是非お買い求めを。
いや、来月単行本になるそうなので、そちらを是非。
『肝心の子供』磯崎憲一郎、です。

前の週に受賞の事実を知って、じゃあ土曜日に上京の予定があるからせっかくなので1日出発日を早めてぜひ一献、という具合にアポイントが進んだ。
chinsan もぼくも、磯崎さんが文章を書いているのは知っていたけれども、そこまで真剣に書いておられるとは知らなかったから、いやあたまげました、ははは、というような話をする。
かつてはこの3人で、頻繁にメールで議論を交わし合ったりもしていたし、また、磯崎さんは当ブログもよくのぞきに来てくれていたのだけれども、最近音沙汰ないと思っていたら、小説を書いておられたのであった。
延々5時間に渡り、今回の作品を執筆されるに至った顛末やら、授賞式の様子やら、授賞式に集まった大勢の著名人とのやりとりやら、ご近所に住む横尾忠則との邂逅やら等について、興味深い話を聞かせてもらったのだけれども、磯崎さんは相変わらずの強烈なキャラであって、それは常にどのような場においても(たとえ文藝賞の授賞式においても)そうなのだということがよくわかって大変楽しかった。
とにかくキャラが立っているから、考えてみれば、有名人になるには向いていらっしゃると思う。

「思春期にロックを聴いてない奴はダメだ」というのが磯崎さんの持論である。
磯崎さんはこのように小説家になってしまったし、chinsanは編集者だし、お粗末ながら私も売文業にかかわっていた時期がある。しかし、我々が所属していたのは、文芸サークルではなくて、音楽サークルなのであります。
最後は「ボルヘスとガルシア・マルケスを読め」とのご指導を賜り、深夜過ぎにお開き。
磯崎さんは酒を飲まないが、chinsan と私は、ビール、シャンパン、ワインと順調に進んで、すっかり風邪のことも忘れていたのだけれども、気がついたらやはり喉が痛い。
夜は、chinsan宅に泊めていただく。

19日(土)、2本目。
お昼から、京王プラザにて同僚のケニア人の結婚披露宴。
最後にコブクロの「永遠にともに」を歌うからギターを弾いてほしい、という話はずいぶん前から聞いていた。
しかし、その曲を初めて聴いたのは1週間前である。(コブクロという名前は知ってたけど、コミックバンドか何かだと思ってた)
練習したのは3日前に1度、1時間程度やっただけで、しかも、そのときになって初めて、サビでハモってほしいと言われた。
また、スピーチをやらされるということもずいぶん前から聞いていた。
しかし、それが乾杯前のトップバッター、すなわち主賓挨拶であるということを知ったのは2日前である。

chinsan宅ではいつもながら快適な環境と快適な朝食を与えていただいたのだけれども(chinsann、いつも本当にすいません)、スピーチのことが気になってよく眠れなかった。
幸い鼻水はかなりおさまっているものの、喉の痛みは相変わらず。
どきどきしながら10時過ぎに会場へ。

新郎が写真撮影に入る前に、会場で歌のリハーサル。
これが最後の練習のチャンスだったのだけれども、結局サウンドチェックに時間がかかりすぎて、かろうじて1回合わせただけで時間切れ。
いや、歌はまあなんとかなるだろう。
問題はスピーチだ。

12時開演。
席は(主賓だから)新郎新婦の目の前。
新郎のケニア人は、日本国内にも幅広い人脈を持つ。
隣りに座っている人は、地方のとある航空会社の社長である。
その隣は、都内に数十軒の店を持つ実業家らしい。
そういうVIP達を差し置いて、このおれが主賓スピーチ。
「若輩者」という言葉が頭を縦横無尽に駆け巡る。
今のおれにこれほど相応しい言葉もあるまい、と。

披露宴でスピーチした経験は何度もあるけれども、しらふの段階でやるのは初めてだ。
たいていは「友人代表」とかいう立場だから、周りには一緒に来ている友人達ががやがやいてくつろいでいるし、話す頃には、会場にも一定のノリができている。
しかし、今回は違う。
会場には、新郎以外に1人の知り合いもおらず、トップバッターである故、場のノリもつかめない。
て言うか、自分のスピーチによってノリを作り出さねばならないのだろう。
どの程度フォーマルにやるべきなのか、どの程度までカジュアルであっても許されるのか、その辺が全く計り知れない。
というような事を考えていたら、案の定ガチガチに緊張して、肝心なことを1つ言い忘れる。
尻上がりに緊張が増し、最後の方は脚まで少し震えているような気がした。
出番が早く終わるからあとは気楽だけれども、後味が悪くてなかなかくつろげなかった。

その後は、シャンパン、ビール、白ワイン、赤ワインと順調に進んで、次第にいい気分に。
結婚式は先月ケニアですまされていて、そのときの様子がDVDで会場に映される。
ケニア人の友人のスピーチや新婦の親族の言葉なども非常によくて、たいへん感じのいい披露宴だ。

最後、新婦から両親への手紙、新郎からのお礼の言葉といったクライマックスの直前。て言うか、そのクライマックスの入り口として、新郎の歌「永遠にともに」が披露される。
そこでギターを弾き、サビをハモるのが私の次のミッションである。
ギター伴奏までする主賓っていうのもどうなの?っていう気もよく考えたらするが、この頃にはもうお酒が進んで、すっかりいい気分になっている。
緊張ゼロ。
音響も、新郎が準備してくれたオベーションのエレアコも、非常に具合がよくて、たいへん気持ちよく演奏できた。
ただし、ハモりは完全に失敗。
もともと自分には無理のあるキーで、ただでさえ裏声を出さなければならないのに、風邪で声がちゃんと出ない上に、酔っぱらっている。
最初の1音を見失ったら、全てがとんでしまった。
酔った頭で瞬時に、これは無理に声を出してはいけない、と判断し、悪いけど新郎1人で歌ってもらうことにした。
あと、たぶんテンポもちょっと遅かったな。
緊張するとテンポはたいてい速くなるんだけども、酔ってると遅くなるのかもしれない。
でも、ギター自体はたいへん気持ちよく弾けたから、おれ的にはまあよしとする。
3時半にお開き。

そのまま徒歩で、予約してあったビジネスホテルへ。
披露宴の式場は新宿西口のホテルで、宿泊先のビジネスは厚生年金会館の近く。
学生時代、厚生年金ホールへ行くには、何の躊躇もなく新宿駅から歩いていたので、そんなに遠くないイメージがあった。
だから、当然歩いていくものだと考えて、靖国通りをぼちぼち歩き始めたが、いつまで経っても着かない。
結局30分も歩く羽目になり、風邪ひきの酔っぱらいでもある故、ぼろぼろに疲れ、ここで体力を使い果たす。

しばし休憩の後、再び新宿東口に戻り、6時に「社長」及び「バロちゃん」と待ち合わせ。

3本目スタート。

バロちゃんはこの10月から生駒を離れ、東京に転勤になった。
その連絡を受け、それじゃあ土曜日に上京の予定があるので、せっかくだから異動祝いに是非一献、という具合で飲むことになった。
東京にいる人々全員に声をかけたが、直前に「さんぽん」さんもキャンセルになり、なんだかんだで結局この3人。
適当な居酒屋を見つけ、披露宴の酔いもさめぬまま、とりあえずビールでスタート。
スピーチと演奏のストレスからも解放され、気遣い不要の気楽なメンツでもあり、風邪と疲れも忘れて、また酒を進める。

そこでふと気がついた。
社長とは割と頻繁に会っている。
先々月も東京で会ったばかりだ。
バロちゃんとも、結構会っている。
年に1度や2度は必ず顔を合わせる。
しかし、この3人だけで飲むというのは、相当に懐かしい感じがする。
そして、よくよく考えると、この3人が東京で飲むというシチュエーションは、実に20年ぶりなのであった。

20年前、すなわち我々が20歳のとき。
奇しくもあの時も新宿東口であった。

社長はその時入った店も覚えていた。
「オランダ屋敷」というチェーンの居酒屋だったらしい。
靖国通りに面した雑居ビルの、6階とか7階とか、かなり上の方にあった。ような気がする。
まだ酒の飲み方もよく心得ていない若造3人は、そこで熱燗をしこたま飲んでいい感じに出来上がり、当時、落合に住んでいたぼくのアパートへ、西武新宿線に乗って帰ったのであった。
帰る道すがら、泥酔した社長は、我々の前を歩いていたサラリーマンのカバンをいきなりぐいっとつかんだ。
バロちゃんとぼくは、すいませんすいません、と代わりに謝ったが、その謝っている2人もヘラヘラヘラヘラ笑っている。
サラリーマンは、酔っぱらい学生3人の愚行に怒りもせず、「楽しそうだねえ」と笑ってすませてくれた。
時代はバブル前夜である。
社長はぼくのアパートに着くと、冷蔵庫の製氷皿から氷を出して、花咲じじいのように床にばらまき始めたのだった。

そのようなことがあったのが、ちょうど20年前なのである。
その時は、ぼくが東京に住んでいて、社長とバロちゃんは京都にいたのだ。
今は、社長とバロちゃんが東京在住で、自分がおのぼりさんになっている。

そうした巡り合わせの妙に3人で少し感動しながら、旧交を温める。
次にこのメンツがここで飲むのは60歳になったときではないか、という話になったら、社長は、60まで生きる自信がない、と言った。
しかし生きていたらお金持ちになっているだろう、とも。
社長は、社長になって以来、週に14回くらい飲み会があるそうだ。
今週は、われわれとこういう臨時の飲みが入ったので、15回になったかもしれない。

結局、1時半まで、延々7時間半飲み続ける。
昼の披露宴から考えるなら、13時間半だ。

2時にホテル帰着。
寝る前に、余っていた漢方薬を水で飲んだら、横になった途端、キリキリとくる胃痛に襲われる。
自分は腸が弱く下痢症ではあるが、胃が痛むことは滅多にない。
疲れ切った胃に、自分が処方されたわけでもない適当な漢方薬を変なタイミングで流し込んだのがいけなかったのか、それとも激しい飲酒後に飲んだのがいけなかったのか、薬は関係なく単に暴飲暴食の因果応報なのか、とにかく2時間ほど痛みに悩まされ、明け方近くまで眠れず。

翌朝は8時起床、9時チェックアウト。
胃痛はおさまっているが、さすがに全身がだるい。
風邪もまだぬけない。

帰りもこだまで爆睡しつつ家に向かい、午後3時頃帰着。
家では息子が1人で留守番していて、自分の帰りを待っていた。
2日も留守にした負い目もあり、また、たいへんいい天気でもあったので、風邪と疲労でかなりきつかったけれども、息子の求めに応じて公園で小一時間ほどキャッチボール。
夜はさすがに酒を抜いた。
何ヶ月ぶりかの休肝日。

かくして東京48時間3本勝負、無事こなしたのであります。

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2007年10月18日 (木)

貧乏論(3)

前回書いた、「貧乏とは何か」についての内田樹の見識は、貧乏についての明快な理解は与えてくれるものの、結局のところ、おのれの「貧乏コンシャスネス」とどのように付き合っていけばよいのかという実際的な指針は与えてはくれなかった。
われわれが求めているのは、実際に貧乏と上手に付き合って生きていくための現実的な処方箋である。
そのためには、内田樹を超える論理が必要になる。

「正しい」論理は必要ではない。
必要なのは、自分を幸福にしてくれる論理だ。
常々、内田樹は、現在において自分をもっとも幸福にしてくれる論客の一人であると思っているのだけれども、その内田樹をしても、貧乏問題についてははっきりとした道筋を示してはくれない。
ここはひとつ、”内田”つながりということで、大正~昭和に渡る貧乏のプロフェッショナル、借金王にして「錬金術」の達人とうたわれた内田百閒先生のお言葉から啓示を得るしかあるまい。

まずは代表作『百鬼園随筆』所収「百鬼苑新装」より。

百鬼園先生思へらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相(すがた)に過ぎない。或は、更に考へて行くと、金は単なる観念である。決して実在する物でなく、従つて吾人がこれを所有すると云ふ事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。
 実際に就いて考へるに、吾人は決して金を持つてゐない。少くとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかつた後かの観念である。受取る前には、まだ受取つてゐないから持つてゐない。しかし、金に対する憧憬がある。費(つか)つた後には、つかつてしまつたから、もう持つてゐない。後に残つてゐるものは悔恨である。さうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いてゐるのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在と云ふものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いてゐる。幾何学の線のやうな、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思つてゐる。Time is money. 金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。

ご覧のとおり、百閒先生の貨幣観は、マルクスのそれに近いと思うのだがどうか。
曰く、金とは観念であり、所有することは不可能である。それは一連の憧憬と悔恨に過ぎない。
百閒読みの間では余りに有名なこの一節のみにおいても、すでに十分な啓示を与えられた気がするが、結論を急ぐことはない。更にいましばらく百閒先生のお言葉に耳を傾けよう。
同じく『百鬼園随筆』の「無恒債者無恒心」より。

抑(そもそ)も、貧乏とは何ぞやと小生は思索する。貧乏とは、お金の足りない状態である。単にそれ丈に過ぎない。何を人人は珍しがるのだらう。世間の人を大別して、二種とする。第一種はお金の足りない人人である。第二種はお金の有り余つてゐる人人である。その外には決して何物も存在しない。第三種、過不足なき人人なんか云ふものは、想像上にも存在し得ないのである。自分でそんな事を云ひたがる連中は、すべて第一種に編入しておけばいいので、又実際に彼等は第一種の末流に過ぎないのである。
 ……(中略)……お金が余れば、お金の値打がなくなり、足りなければ、有難くなり、もつと足りなければ借金するし、借金も出来なければ、性分によつては泥棒になる。泥棒が成功すれば第二種に編入せられ、お金が余り過ぎて、値打がなくなると、澤山つかはなければ納得出来ないから、費(つか)ひ過ぎて足りなくなつて、第一種に返る。あつても無くつても、おんなじ事であり、無ければ無くてすみ、又ない方が普通の状態であるから、従つて穏やかである。多数をたのむ貧乏が、格別横暴にもならないのは、貧乏と云ふ状態の本質が平和なものだからなのである。

金はあってもなくても同じ。無ければ無くてすむのなら、無い方が穏やかであって、貧乏という状態の本質は平和なものである……。
非常によくわかるような気がする一方で、さっぱりわからないような気もする。
もう少し研究が必要なようだ。
続いて『随筆億劫帳』所収「百閒座談」より。

貧乏と云ふ事はただ一つの状態にすぎないね。
私は電車賃のない事は始終で、電車賃がない為に毎日人力車で学校へ出勤した。それで、貴方は田舎に金があるからそんな贅澤が出来るんだと、羨ましさうに云はれた。何、その頃はもう田舎も金もありやしない。目白臺から士官学校に通つた時代です。
それよりもつと以前は、何しろ坊ちやん育ちなのでね、家にお金もまだ少しは残つてゐたから、学費やお小遣は友達よりずつと澤山貰つてゐた。しかし、私が一番貧乏してゐましたよ。貧乏と云ふ事はお金がないと云ふ事ではありませんね。薄給の人で豊かな明け暮れを過ごしてゐる人も随分ありますからね。
 清貧と云ふのはどう云ふのですかね。嘘でせうね。人の眼にさう映るだけの話であつて、俺は清貧に甘んずるなんて云ふ君子はゐない筈だ。

もはや何を言っておられるのかよくわからない。
しかし、ここは慎重に行間を読まなくてはいけない。
言外の意図をすくい取らなければならない。
きっと百閒先生のことであるからして、そうそう一筋縄ではいかないだけである。

先生は清貧を否定している。
借金を重ねる身でありながらも、電車を使わず、借りた金で人力車や自動車を呼んだりして周囲に非難されるエピソードは、著作に繰り返し出てくる。
それは、単に坊ちゃん育ちで贅沢が抜けないだけではない。
その裏には、揺るぎない論理(或いは非論理か)がある。

 借金で一番いけないのは恩借と云ふ奴ですね。利子の附く金はいいが、証文のない借金、それが困る。金高の少いのは一番困る。自分の境遇が変はつてお金があつても、返す事が相手に失礼になつて返せない。つまり、結局有り難く頂戴してその恩を着る。こいつは全く貧乏の産物です。僕の話ではありませんよ。

 貧乏人とは附き合ふものではない。僕は金が出来たら絶交しようと思ふ。格言に、「金を友に貸せば、金を失ひ友を失ふ」と云ふのがある。お金を貸した為に失ふ位の友ならば、先に捨てた方が早手廻しである。……(中略)……
 先づ友達にお金を借りて見る事ですね。さうすれば、相手の人の気持がよく分かります。尤もこちらの気持もお金に対してすなほでなければいけない。僕は此間、貯金の話をした。貯金をしてゐると大概は人に隠す。打ち明ける様な事を云つても実は自分の溜めてゐる額より少く話す。或はありもしないのに澤山溜めてゐる様な事を云ふ。先づそのどつちかですね。ありもしない貯金をある様に云ふのは勿論腹に一物あるからだ。相当溜めてゐる癖に、俺は貯金してゐない、そんな身分ぢゃないなんて云ふ手合ひは、心事の陋劣唾棄すべし。隠し事はいけませんね。

 お金のある貧乏人はつらい。随分古い話ですが、僕には年収六千円以上の時代があつた。三つの学校の俸給を合はせるとその額になつたので、三十歳を出たばかりの当時です。その間ぢゆう苦しかつた。三十四五からはもう貧乏期に這入り掛けた。お金が這入ると人間は貧乏しますね。

……ますますもってよくわからない。
しかし、少なくともどうやらおれは間違っていたようだ。

年収300万でも、「もうこれくらいでいいや」と思えれば勝ちではないか。前々回に書いたとおり、最初はそう考えた。
しかし、百閒先生は、どうもそうではないとおっしゃる。
清貧なんて嘘だ。お金は足りないか有り余っているかのいずれかでしかなく、過不足無いというのはあり得ない、と。
憧憬と悔恨の間には、幅のない1本の線しかないのだ。

百閒先生は、気まぐれでその都度適当に書いていて、それぞれの文章が平気で矛盾している……かのようにも見える。一見そのようにも思える。
単に訳の分からないことを言って面白がったり、対談相手を煙に巻いたりしているだけのようにも見える。
が、恐らくそうではない。
百閒に常に一貫しているのは、結局、「お金なんか大したことではない」という思想である。
お金がほしいという欲望も否定しないし、手にすれば使いたくなるのも当たり前、浪費してしまった後には当然悔恨が残る。しかし、そうしたことに拘泥することがない。また、そんなことではダメだと戒めたり説教したりすることも決してない。
そりゃあ誰だってなければ欲しいし、あれば使いたい。使ってしまった後は惜しくなる。けれども、金は、決して人の一生を賭すほどの何者かではない。百閒先生はそのように曰っておられるのではないか。
「これくらいで十分じゃないか」などという達観を目指すわけでもなく、清貧なんてのは嘘だと切り捨てながら、同時に、「これくらいで十分」という達観や清貧の聖者に等しいほどの心の平穏を、「貧乏」そのもの、「貧乏コンシャスネス」そのものの中に見いだす。
ある時はあるし、ない時はない。
それだけであって、それ以上でも以下でもない。

もったいないなどとケチケチしてお金を後生大事に抱え込み、したいことも我慢しているような生き方は、百閒先生にとっては、誠に愚かなことになる。
十円の金を調達するため、高価な人力車を仕立てて借りに行ったというのもよく知られるエピソードだ。車代に三十円かかっても、それは四週間後の月末払いだから、その時またあらためて考える。

百閒は実際に、借金取りから逃れるために身を潜めて暮らすほどの貧乏な時期も過ごしているし、大切にしてきた品々(師匠夏目漱石からの授かり物さえも)を借金の方に差し押さえられ、家には家財道具が何もないというような状況も経験している。
明日の朝飯どころか、今夕の食事を子ども達に食べさせるにも事欠いたような時代もある。
先の引用のように高給取りの時代もあったし、随筆ブームを巻き起こし人気作家となった晩年には印税収入もかなりあっただろうが、それでも借金との縁は切れなかったらしい。
「お金が這入ると人間は貧乏しますね」というのは、百閒先生の場合、逆説でも何でもない。

必要と感ずれば使いたいだけ使い、なければ借りてまで使い、その結果悔恨にさいなまれ、身の細るような思いもし……と、外から見ると百閒先生は、達観どころか、まるごと一生金に翻弄されているようにも見える。
しかし、それを屁理屈でもって楽々と(でもないだろうけど)かわしている。

他人に清貧や質素倹約を強いるような物言いをされるのは、何となく不愉快だ。
稼ぎが少ないのは努力が足りないからだ、頑張って働け、などと叱咤激励されるのも鬱陶しい。
百閒の言葉には、そのような抑圧が一切ない。
読むと救われた気分にさせられる。幸せになる。
そして驚くべきことに、百閒の方法ならば、内田樹の言う近代市民社会や市場経済の原理にも反することがない。

百閒先生は、現代の親鸞だったのではないか。

「金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。」

けだし至言。
歌の文句のようにリズムもよい。
座右の銘にしたい。

なければ欲しいと思う。どうしても足りなければ借金する。あれば使いたくなる。使ってしまうと惜しくなる。
それは、未来が、現在という幅のない線を通過して過去になっていくのと同じである。
金とは現象であって、それを所有しようというのは観念上の錯誤なのである、と。

最後に、百閒自身の言葉ではなく、弟子の中村武志による客観的な証言も引いておきます。
福武文庫『新・大貧帳』の巻末解説「百鬼園先生の錬金術」より。

昭和八年「百鬼園随筆」が売れに売れて、洛陽の紙価を貴からしめたのであった。印税の一部六百円が年末近くにはいった。その直後、京都の友人甘木さんが五百円を借りに来た時、先生は百円上乗せして、手許の六百円を全部貸して、ご自分は正月のおせち料理もなしに、元旦の祝盃をあげた。その六百円は、敗戦後の昭和二十二年に返済された。昭和八年の六百円と戦後では大変な貨幣価値のちがいがある。千分の一か数千分の一か知らないが、戦前では家一軒が建ち、戦後では日本酒一本が買えるくらいであっただろう。このことは、たまたまそれを目撃した人から直接聞いたのだが、先生はかつてそれを一度も話されたことはない。

 今にして思うが、百鬼園先生は、どんなに貧乏していても、露骨に悲しんだり、嘆いたり、グチをこぼしたことはなかった。淡々として借金の計画をし、自分のために、いくらを現象化し、その残りを多くの小債鬼にいかに配分して返済するか、と細心に配慮した。
 貧乏話には感傷的なところもない。人ごとのように書いておられるから、そういっては申訳ないが、読んでいて自然に笑いがこみあげて来る。
 昭和四十六年四月二十日夕、百鬼園先生が静かに息を引き取られた時、電話機の下に、千円札が四枚と硬貨が数枚あるだけで、借金はほとんど残されていなかった。

……こりゃあやっぱり私ごときが真似すんのは無理だな。

(おしまい)

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2007年10月16日 (火)

貧乏論(2)

貧乏の問題について、内田樹がしばらく前のブログで、非常に明快で、なおかつたいへん納得のいく定義をしていたので、以下、抜粋・要約。
「貧乏」と「貧困」はどう違うか。

 貧困は経済問題であるが、貧乏は心理問題である。数字で扱える問題とは次元が違う。
 日本ではおおざっぱに世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別される。だが、年収2万ドル弱というのは、世界的に言うと、かなり「リッチ」な水準である。日給240円のニカラグアの小作農は年収87600円である。「絶望的な貧困」と申し上げてよろしいであろう。この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子供はその境涯から脱出することがほとんど不可能だからである。
 一世帯年収200万円はその意味では「絶望的な貧困」とは言えない。その世帯の支出費目に教育費が含まれており、収入が主に企業内労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的資質や芸術的才能を開発したり、業務上の能力を評価されて昇給昇進するチャンスが残されているということを意味するからである。
 だから、日本で社会問題になっているのは貧困ではなく、貧乏であると考えた方がよい。
 屋根のある家に住み、定職を持ち、教育機会や授産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態は「貧困」とは言われない。あちらにはベンツに乗っている人がいるけれど、うちは軽四である。あちらにはGWにハワイに行く人がいるのに、うちは豊島園である。あちらにはシャトー・マルゴーを飲んでいる人がいるのに、うちは酎ハイであるという仕方で、所有物のうち「とりあえず同一カテゴリーに入るモノ」を比較したとき、相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。

なるほど。非常に明快。
今後は、この定義に従って、「貧困」「貧乏」を使い分けることにする。

 近代以前には、この種の貧乏は存在しなかった。農民が大司教の衣装と自分の衣服を比較して恥じ入るとか、猟師が王侯貴族のような城館に住んでいないことを苦しむというようなことは起こらなかった。生物学の用語を用いていえば、「エコロジカル・ニッチ」(生態学的地位)が違っていたからである。鼠が象を見ても「あんなに大きくなりたい」とは思わないのと同様である。

 貧乏とは、私が端的に何かを所有していないという事実によってではなく、他人が所有しているもの(それは私にも等しく所有する権利があるはずのものである)を私が所有していないという比較を迂回してはじめて感知される欠如である。
 第二次世界大戦が終わったあとの敗戦後の日本はたいへんに貧しかったけれども、人々の顔は総じて明るかった。それは日本人全員が同程度に貧しかったからである。「共和的な貧しさ」(関川夏央)のうちに人々は安らいでいた。私は1950年の生まれであるけれど、50年代までの日本社会の穏やかな空気をまだ覚えている。
 そのあと日本は「貧困」から脱して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えた。豊かさに差が生じたからである。
 1950年に六畳一間の貸間に住んでいる一家はまだ少なくなかった。だから、住人たちもそのことを深く恥じてはいなかった。それは偶有的な不運によって説明可能だったからである。だが、1960年には、そのような家に住むのは例外的な少数になり、親たちは自分の子どもがそのような家に足を向けることを禁じた。貧しいことは能力や意欲の欠如とみなされるようになったからである。そのようにして、貧乏は「共和的」であることを止めた。

 渡辺和博が『金魂巻』で「○金」「○ビ」という二分法で、「ビンボくさい」というのはどういうふるまいを指すのかを論じてベストセラーになったのはバブル直前の1984年のことである。このとき、もはや「貧困」は社会問題ではなくなっていた。問題なのは「貧乏」であり、人が「貧乏」であるかそうでないのかを識別することには、この時点ですでにかなり複雑な手続きを要するようになっていた。
 年収の多寡はもうここでは主要な識別指標ではなくなっている。「○ビ」の特質とされたのは、「他人の所有物を羨む」というメンタリティそれ自体だったからである。クリエイティヴでイノベーティヴな「○金」の人々は自分の規範に従い、自分の欲望に忠実である。一方、模倣的で追従的な「○ビ」の人々は他人の規範を模倣し、他人の欲望に感染する。

えー、ほとんどまるごと引用してますが、長くなったついでにもう少し。

 貧困はとりあえず前景から退いたが、貧乏は日を追って重大な社会問題となっている。それは貧乏が記号的なものだからである。
 貧乏は金の不足が生み出すのではない。貧乏は「貧乏コンシャスネス」が生み出すのである。誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。そして、たいへん困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。

 当然ながら、どれほどものを買っても、「他人が有しているもの(それゆえ私にも所有権があると見なされているもの)」を買い尽くすことはできない。市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄える。外形的にはきわめて富裕でありながら、なお自分を貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者である。だから、企業もメディアも、消費者に向かっては「あなたは当然所有してしかるべきものをまだ持っていない」という文型で(つまり、「あなたは貧乏人だ」と耳元でがなり立て続けることによって)欲望を喚起することを決して止めないのである。ナイーブな人々はそのアナウンスをそのままに信じて、おのれの財政状態にかかわらず、「私は貧乏だ」と考えて苦しむことを止めない。そのようにして資本主義は今日まで繁昌してきた。

 「私は貧乏だと思って苦しむこと」は(定義上からしても)人間をあまり幸福にはしない。できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う。だが、「私はすでに十分に豊かである」と考える人はたいへん少ない。もちろん、それには理由があって、そんな人ばかりになったら、消費は一気に冷え込んでしまうからである。

 他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる、「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えないが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。自分はいったいどのようなものを食べたいのか、どのような声で話しかけられたいのか、どのような肌触りの服を身にまといたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても、「貧乏」に苦しむことはない。

 貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁昌するであろうと私は思う。
 まあ、それも仕方がないか、というのが私の考えである。私たちの社会を住み易くするための原理として、とりあえず近代市民社会と市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまいと私は思っている。

このとおり内田樹の書いているのは、簡単にまとめると、「貧乏」とは金の不足ではなく「貧乏コンシャスネス」が生み出す心理問題である、ということになる。
そして、その論理的帰結として、内田樹は、『近代市民社会と市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまい』と結論づけているけれども、それは論理の流れとしてそうなってしまうということであって、恐らく本音のところは、『できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う』という部分だと思う。
できればそのように生きる方が、理想としては美しい。

やり方は簡単であって、要は、「近代市民社会と市場経済」から「降りて」しまえばいいのである。
例えば、うちの田舎の伯父母などは、インターネットなど意味も分からないし、テレビもニュースとのど自慢くらいしか見ない。
毎日田んぼや畑の世話をするくらいで、世間にどのような「欲望」が流通しているかといった情報から限りなく疎外された生活なので、「他者の欲望」に極めて感染しにくい状況で暮らしている。
収入はわずかな年金のみだけれども、米も野菜も自前だから、喰うに困ることはない。
いや、現実にはそれでもかなりの「貧乏コンシャスネス」を抱いているようだけれども、つまりは、このような生活か、願わくば更に情報から隔離された環境に身を置けばいいのである。
理屈ではそうなる。

しかし、だ。
そんなことが可能か。
いや、そもそも、可能であったとしても、もはやそんなことを現実的にしたいと心から思えるか。
無理だ。
可能でもないし、したいとも思えない。

近代市民社会と市場経済から「降りる」ことなく、なおかつ「貧乏コンシャスネス」を持たずに生きる。
そんな風にはいかないものか。
内田樹の論理は明快で説得的だけれども、そのような方法までは教えてくれない。

そうした離れ業に挑むには、内田樹を超える論理的跳躍が必要と思われる。

(つづく)

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2007年10月15日 (月)

貧乏論(1)

うちは貧乏だ、金がない金がない、と、愚妻と2人して口癖のように言ってばかりいるので、いつの間にやら2人の子供達にも貧乏人の子供としての自覚を植え付けてしまったらしく、何かというとすぐに「うちはびんぼうだから」と言うようになった。

実際、我が家の家計は非常に厳しい。

愚妻は金がないのを苦にする割には、仕事をしようという気はないらしく、年収ゼロの専業主婦をもう8年も続けている。
月々の収支は、常に「少し赤」~「大幅に赤」であって、通帳の残金がマイナスにならない月はほとんどない。(銀行には、月々30万までは自動的に無担保で借金できるという便利なシステムがある)
マイナスになると、メールでアラートが来るようにしてあって、ボーナス時にストックしておいた「非常時用資金」から補填してしのぐ。
だから、ボーナスはその決して少なくない部分が「非常時用資金」のアカウントへ直行するのであって、6月も12月も、特に楽しいことは起こらない。

これからはさらにどんどん子供にも金がかかるようになるだろう。
この状況をどう打開していけばよいのか、というのは、それなりに大きな問題なのだけれども、かと言って、急に金持ちになれるわけでもない。

パートでもいいから愚妻が少しは働けば金銭的にはかなり違うとは思うけれども、そうすると、さらに家事の分担を要求されるのは必至であろうし(今でも少しはやってますよ。念のため)、忙しい忙しい等という愚痴の聞き役にもならねばなるまい。
本人が働きたいと思うのでなければ、無理に仕事してもらっても、それが幸福な状態を生み出すということは考えにくい。

かと言って、宮仕えの身であるからして、自分の収入が劇的に増えることはあり得ない。
世帯収入を増やす方策は、現実的には、ほぼないと言ってよい。

だとすれば、金のないことを嘆いたり、金持ちになろうとしたりするのではなく、貧乏を楽しめるようになる、貧乏でいいじゃないかと思えるようになる方向へ、意識を改革していくのが最もよりやり方ではないかと思う。

いや、貧乏だ貧乏だと自分では言っているけれども、実態として我が家は、決して世間様に向かって堂々と「貧乏」を名乗れるほどの低所得ではない。
世間一般の同年代との比較の上で見た自分自身の給与収入はもちろんのこと、世帯収入としても、(うちは私の給与所得=世帯の所得ですが)、世間全般からすれば、上中下の中、松竹梅の竹くらいのランクにはあるだろうと思う。
確かに、学歴だけはそれなりに高いせいか、学生時代の友人知人などはほとんど皆が高給取りになっていて、普段、そういう人々との比較においてしか自身の境遇を考察しないので、日常の意識としては、上中下の下、松竹梅の梅としての自覚が強いけれども、世の中全体に向かって胸を張って貧乏だなどと言ったら石が飛んでくるに違いない。

実際、金がない金がないと言いながらも、月々はちゃんと積立もしてるし、子供に習い事もさせているし、発泡酒じゃなくてビールしか飲まないし、4年前には新車も買った(もう新車じゃないな、それは)。
そんなに高望みしなくてもこれで十分じゃないかと言われれば、反論はできない。
いや、平均的な給与所得なのに、一馬力では妻一人子二人の4人家族でも月々赤字になってしまう日本社会ってどうなの?って気もするけど。

て言うか、そもそも貧乏とは何なのか。
客観的にはとても堂々と貧乏を名乗れる資格などない程度の収入はあるにもかかわらず金がない金がないと嘆いているのは、そもそも心構えが悪いのではないか。
いや、単純に持ち金が多い少ないの問題で言うのならば、いったいどのくらいの金があれば、「もっとほしい」と思わずにすむのか。
もうお金なんていらないや、って思えるほどのレベルにまで達することがどうせできないのならば、年収300万と年収2000万の差はどれほどのものなのか。

金持ちであることを楽しむのはたやすい。
しかし、真の金持ちというのは、もはや金のことを全く気にしていない状態であるのが本当であって、金がたくさんあることを喜んでいるうちは、「もっとほしい」という心理的な飢餓状態に常時移行可能であるという点で、貧乏人と大きな差がない。

逆に、貧乏であることを嘆くのもまたたやすい。
それは多くの人々が毎日やっていることだ。

であるならば、貧乏であることを楽しめるようになれば、それが勝ちなのではないか。
「もういいや、これくらいで十分だ」と思えれば、人生は穏やかで平和である。
負け惜しみでなく「もういらないや」と感じることができるのであれば、それはもはや金のことを全く意識する必要のない大金持ちとも大きな差がない。

年収300万の人が、「もういいや、これくらいで」と思えるようになるのは、年収2000万の人がそう思えるようになるのよりも、恐らくかなり難しい。
しかし、年収300万の人がそのように思えるようになるのであれば、その達観は、年収2000万の人の達観よりも、ずっと強靱で深みがあるはずである。
辿り着くのは大変かもしれないけれども、300万の方が、より高いところへ辿り着けるはずだ。
うーん、よかった、貧乏で。

(つづく)

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2007年10月 8日 (月)

連休

3連休突入前夜の金曜は、「3」、教祖とその上司及び同僚と飲み。
少し会わないうちに「3」は口ひげをはやしており、たいへんむさくるしい。とてもまともな社会生活を送っている人間には見えない。
しかも、はやし方が70年代風と言うか、往年のチャールズ・ブロンソン風と言うか、いんちきイタリア人風と言うか、何か間違っている。
要するにパッと見て誰もが思い浮かぶのはスーパーマリオであって、キャップまでかぶっているので、飲み屋でもみんなにマリオのテーマを歌われている。
12時過ぎまで飲み、いつものことながら、眠気で絵に描いたような見事な酔っぱらい風の千鳥足になっている「3」を何とか歩かせて、家まで連れて帰る。

土曜日。
土日の2日間はお祭り。
午前中に子供神輿があるので、二日酔いを我慢しながら早朝から近所の神社へ。
子供会の引率ではっぴを着て昼前まで延々練り歩く。
「3」も連れて行ったが、髭のせいであまりに見た目が怪しく、愚妻も知り合いと思われたくないのか、いくぶん距離を取って歩いている。
「3」は、さすがに全く縁もゆかりもない地域の子供会の神輿にも付き合いきれず、1時間ほどで離脱して帰った。

午後は少しだけ祭り見物。
あとは家で休息。少し昼寝。
夕方からは、親戚の関係で、車で30分ほどの温泉旅館へ。
温泉に入ってから親族で夕食。
他の皆は泊まりだけれども、我が家は泊まらずに夜遅くに帰宅。

日曜日。
朝6時半起床。7時半プレイボールの早朝ソフトボールの試合に出るため、小学校のグラウンドへ。
子供会がらみの付き合いで、人数が足りないからということで急遽助っ人を頼まれた。
ソフトボールやるのは全く問題ないけれども、朝早いのがきつい。
行ってみたら、やってるオヤジ達は半分以上が50代で、40はまだ若造。
レベルはほどほどに低いので、安心して楽しめた。

帰宅後、すぐに祭り見物へ。
年々人が増える。
どこからこんなに集まってくるのか。
2時間ほど適当に回って子供にいろいろ買い食いさせたり遊ばせたりしておしまいにする。
最後にやらせたヨーヨー釣り。
1回100円で、3個まで釣れる。
小3の息子は、不器用な上にバカ正直なので、普通に取り組んで1個釣り、2個目のときに糸が切れて終了。
5歳になったばかりの娘は、首尾よく3個釣り上げる。
小さいくせにえらく器用なもんだと感心していたら、どうもそうではないらしく、インチキしているとのこと。先っちょの金具のところを直接手に持って釣るという堂々たる反則技。しかも確信犯。
そりゃ何個でも釣れるわ。
娘は着実に狡猾なキャラへと育っている。女は怖い。

連日の深酒と睡眠不足で、午後はさすがに眠さに耐えきれず、しばし昼寝。
娘が最近「UNO」にハマっていて、枕元に執拗にカードを配ってくるのを何度も無視しながら、何とか2時間ほど寝る。

毎年書いているけれども、拙宅は祭りのメイン会場から道をはさんですぐのところにあるので、朝から晩まで、12時間以上YOSAKOIの騒音地獄が続く。
毎年書いているけれども、あのYOSAKOIっちゅうのだけはほんとにもう……。
音楽自体も騒音でしかないけれども、YOSAKOIのチームって、何か必ずMCみたいなことやってるリーダー格がいて、「そりゃー」とか「うらー」とか「そーれそれそれそれー」とか、常に吼えまくるのよな。
太鼓とかお囃子とかだけの、静かで穏やかな祭りはもう帰ってこないのだろうか。

いつも買い物しているスーパーの角の広場ではライブイベントをやっていて、看板を見ていたら、午後につボイノリオが1時間ほど出るのを発見。
これは見逃せまいと思っていたのだけれども、昼寝してて寝過ごす。
不覚。

夜は、手筒花火だけ見に行く。
市町村合併のおかげで、かつては遠くの山村であった地域が「市内」となり、その地域の伝統芸が見られるようになった。
初めて見たけど、たいへんよかった。
YOSAKOIを逃れて来ている見物客たちのノリも、はしゃぎすぎず、盛り上がるべきところはきっちり盛り上げ、実によい。
これだ。おれの求めていた祭りは、これだ。
火の粉のシャワーを浴びながら花火を抱えているおっさんを見ていたら、酔いも手伝って、たいへん気分がよくなってきた。
ついつい「ひゅーひゅー」とか大声を出し、愚妻にたしなめられた。

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2007年10月 5日 (金)

宵の危機

今日から天気予報では「宵のうち」という表現をやめて、「夜のはじめ頃」という言い方にするとのこと。
「宵のうち」は、「夜6時から9時頃」を表すために使っていたのだけれども、「もっと遅い時間帯を表す言葉だと理解されている」からだそうで。

なるほど、大辞林で引いてみますと、「宵」は、
①夜になってまだ間もない頃。夜がそれほどふけていない頃。初更。
というだけでなくて、
②よる。夜間。
というのも出ている。

確かに、「宵越しの金は持たねぇ」とか言われると、わりと深夜っぽい気もする。
うちの親は、夜更かしする奴を指してよく「宵っ張り」という言葉も使う。

でも、「まだ宵の口だ」とかも言うし、金星を「宵の明星」と言ったりもするわけで、本来はやはり「夜になってまだ間もない頃」なのだろうと思う。

紛らわしいのは認めます。
でも、「夜のはじめ頃」はちょっとどうかしら。

「宵のうちは雨が残りますが、遅くにはやんで……」とか言えば、文脈でだいたいわかるんじゃないでしょうか。
て言うか「……のうち」っていう言い方自体が、まだ序盤であるというムードを既にぷんぷんにおわせているのであって、それだけでもだいたいわかりそうなもんだ。

それに、天気予報でくらい頻繁に「宵のうちは……」とか言ってくれなきゃ、下手すりゃ「宵」という言葉自体が忘れ去られかねない。
テレビで使ってくれれば、「とうちゃん、ヨイノウチって何?」とか子供にも訊かれると思うんだけども、どうでしょう。

正確を期さねばならぬという気持ちはわかるけど、この言い換えは、大変遺憾に思います。

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2007年10月 2日 (火)

吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』を読む

これは傑作だ。
1999年刊。
本人もあとがきで「わたしにとって好きな本の1つ」と言っているけれども、吉本思想のエッセンスが、(吉本にしては)非常に平易な言葉で、巧みに凝縮されている。
吉本が口述した内容をまとめたもので、目が悪くなって以降、この手の本が次々と出版されているけれども、これは出色の出来。
図書館でたまたま目についてなんとなく手に取ったのだけれども、手許に置いておきたいからちゃんと買おうと思う。

『言語にとって美とはなにか』以降の成果を下敷きに、言語以前の「内コミュニケーション」から「言語の起源」へとじっくり辿りながら、「心とはなにか」「言葉とはなにか」についての独自の吉本理論を概説し、最終的には、そうした言語論に基づいた文芸批評につなげていこうという趣旨、か。
比較的平易なだけに、細部については食い足りないところも多いけれども、その辺をあまりきっちりやられると今度は難解になるわけで(笑)、この本は非常にバランスがよい。
平易だからといって、この本はすらすら読んではいけない。
行間にあふれるほどの含意がある。
それを極力すくい取っていかなくてはいけない。

現実的に、吉本隆明が残してきたテキストは、まだまだ正当に「解読」されていないと思う。
既に「戦後思想の巨人」的な評価こそ定着しているものの、その思想の全容がきっちり読み解かれるのは、まだまだこれからだろう。
その手がかりや契機になるという点においても、こういう本があるのは非常に意義深いのではないかと思う。
まだ生きているうちに、どんどんしゃべらせてほしい。
少なくともこのような本を読めば、言語の問題ひとつとっても、吉本がいかに壮大なスケールで考え詰めてきたかということが容易にわかる。
そして、かなりすごいところまで辿り着いていることが素人にもわかる。
三木成夫の理論をもっと早くに知っていたら自分もソシュールくらいにはなれたんじゃないか、と嘯く部分が本書にはあるのだけれども、冗談でも、ましてや虚勢でもないだろう。
吉本は自説についてそれくらいの自信と自負を持っているし、実際にそれくらい画期的で独創的だと思う。
吉本テキストを解読し、更に押し進めていくのは、後代の仕事である。

本書全体からすればほんのディティールでしかないけれども、今回個人的に感銘を受けた部分を、以下、自分の備忘のために書いておきます。(こういうところにでも一度整理して書いておくと、意外と忘れないので)

奈良朝以前の旧日本語やオーストロネシア語群(ポリネシア、ミクロネシア、メラネシア等の言語群)は、抽象語が得意でなく、精神の状態を表すにも、具体性のある、身体に関する言葉を用いる。
たとえば、日本語で「腹黒い」とか「へそ曲がり」とか「つむじ曲がり」とか言うように、ポリネシア語でも「腹がわからない」とか「腹が偏っている(偏屈である)」とか言ったりする。
われわれは近代の印欧語を輸入しているから、「腹黒い」というのは「根性が悪い」ということのメタファーであると考えがちであるけれども、それは本来、逆である。
古い日本語においては、「あいつは根性が悪い」という意味を伝えるには、「腹が黒い」という具象的な言い方しかなかった(「根性」という抽象語はなかった)。
もともと抽象語がなかったのだから、抽象思考が苦手なのは日本語や古いオーストロネシア語の特徴であって、日本語で抽象的なことを言うためには、明治以降に作った抽象語を使わなければならない。
スピノザは、「2+2はどうして4になるのか」というようなことを考えて一生をつぶしたけれども、日本人でそういうことした人はたぶんいない。その代わり、粘土をこねて「どうやったら美的な茶碗をつくれるか」ということで一生をつぶした人はいるだろう。

……というような具合で、この本の前半はいろんなところで何度も繰り返し語っている内容だけれども、後半は、枕詞の解釈とか、折口信夫と琉球語とか、個人的にあまり読んだことのなかった各論がいくつもあって、そういう意味でもたいへんスリリングでした。
ともあれ、吉本隆明をとりあえず何か1冊……という向きにはお薦めです。

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