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2007年9月

2007年9月27日 (木)

絲山秋子『沖で待つ』を読む

久しぶりにいまどきの小説を読んだ。

うーん、決して嫌いではないけれども、特に感心するところもまるでない。
すらすらと楽しく読めるけど、ひっかかるところがない。
清涼飲料水のようだ。
軽いなあ、芥川賞。

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2007年9月25日 (火)

岡村靖幸『はっきりもっと勇敢になって』を聴く

このジャケ写は、現在の姿なのだろうか??(左のリストを参照して下さい)
留置生活でダイエットに成功??

いずれにせよ、復活を素直に喜びたい。
曲の出来も、個人的には95点。
何より往年の素直なポップ路線であることが泣ける。
天才・靖幸がちょっとその気になれば、このくらいのクオリティの楽曲はすぐに出来るのだ。

原点に戻って、というような意識が本人にあったのかどうかはわからない。
とにかく、この方針はあまりに正しい。

どうか売れますように。
そして、このセンでフルアルバム1枚、作ってくれますように。
切に祈っております。

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2007年9月23日 (日)

運動会

今日は息子の小学校の運動会。
朝6時半に息子に起こされ、小学校のグラウンドまで自転車で走って場所取りに。
6時半でも既にほとんど好位置は残されていない。
今年は例年になくみな気合いが入っている様子だ。
ただし、「好位置」というのは、トラック周辺の最前線ではなく、運動場の隅っこの木陰。
昨年までの反省から、今年は絶対に日陰にシートを敷こうと決めていたのだけれども、さすがに今年の残暑の厳しさは皆に同じ事を考えさせたらしい。

実際、地獄のように暑かった。
やはり運動会というのは、秋晴れの爽やかな日にやりたい。
今日は大阪で観測史上最も遅い猛暑日(35.1℃)を記録したとのことだけれども、地球がそのようになってきたのであれば、運動会シーズンも考え直した方がいいんじゃないかと思う。
子供も、観てる方も、熱中症になりはしまいかと心配になる。

しかも、今年は愚妻がPTAの役員で広報担当なもんだから、写真撮影の任務を命じられている。
木陰の席はなんとかぎりぎり確保できたものの、自分はほとんど炎天下で写真撮りっ放し。
どうせ使われるのは数枚だと聞いているので、うちの小型のチャチなデジカメでポイントだけ撮っておけばいいだろうとタカをくくっていたのだけど、うちの実家の親が、デジタル一眼レフ、ソニー(て言うかミノルタだよな)α100を持ってきた。
それを使わせてもらうことになって、ちょっとやる気が出てしまい、ほぼ全競技撮影することに。

うーん、やっぱ圧倒的に使いやすいな、デジタル一眼。
ほしい。
とてもほしい。

お弁当の時間、炎天下の撮影で既にバテており、ビール1缶に、冷たいお茶をがぶがぶと摂取。
そのせいで、午後は腹を下す。

腹痛に耐えながら、午後も撮影。
午前中になまじっか気合い入れて撮りまくったため、他の広報担当者の手前、午後も引くに引けなくなってしまった。
結局250コマくらい撮影。
パン食い競走にも出場。

ちなみに、息子は、徒競走で、5人中5位。
いいよ、わかってたよ。
本人もさほど気にする様子もなく、ずっと前から、組体操とアトラクション競技に期待して今日の日を楽しみにしていた。
楽しけりゃいいよな、うん……。

しかし、いまどきの子供の運動能力の低下は、データを見るまでもなく、徒競走やリレーの様子を眺めているだけでも明らか。
リレーのバトンタッチとか、もっとちゃんと指導すりゃいいのに。
リレーも、少子化でクラス別対抗戦が成立しないため、全学年一斉の地区別のみ。
やっぱクラス対抗がないと盛り上がらんよね。

夕方帰宅すると、完全に夏バテ症状。
食欲がない、というようなことは普段はあり得ないのだけれども、久しぶりに体験できた。
脂っこいものが喰いたくない。
でも、ビール2缶飲んでほぼ復活。
まだ体の火照りはとれませんが、ブログ書ける程度には戻りました。

明日はお彼岸の墓参り。
その後はたぶん芋掘りします。
もしかすると栗ひろいも。
また暑いんだろうな。

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2007年9月19日 (水)

横山源之助『日本の下層社会』を読む

たまにはこういう名著・名作の類も読んでみようということで、出張続きだった8月、移動中の時間つぶし用に購入。

日清戦争後の明治32年刊、当時の最下層労働者のルポであり、社会学の古典。
都市の貧民、職人、手工業者、工場労働者、小作農などの実態が、実に綿密に描写されている。
ものすごく面白い。
最後まで読み通せるか自信なかったんだけども、難なく読めた。時間かかったけど。

何より、当時の庶民の生活実態を実感的に概観できるのが素晴らしい。
おかげで、「明治」をかなり具体的にイメージできるようになった気がする。
また、富国強兵とか殖産興業とかはもちろんのこと、幕藩体制の瓦解、維新というのが、一般庶民レベルではどういうことであったのかということについても、リアリティを持って感じ取ることができた。
勉強になりましたです、はい。

文章も、明治人の気骨を感じずにはいられない、ビシッと背筋の一本通った、凛とした文体で、読んでいて実に気持ちがいい。
正直、最初はたいへん手こず(づ?)った。
例えばこういうの。

幼時は極めて跌蕩疎放、人のために覊束せらるることを好まず、却りてまま人を凌辱することありて多く世人の弾指を蒙る。されば朝夕一に嬉戯に耽りて未だかつて書を読みたることなく、優々として日月を酣酔の裡に過せり。しかも今日を観るに真率和平些かも曩日の痕影なし。

いや、これは特に読みづらい部分を抜きましたし、岩波文庫にはルビも振ってあるけれども、基本的にこういう調子。
跌蕩疎放は「てつとうそほう」、覊束は「きそく」、酣酔は「かんすい」と読みます。
家で読んでるときは、横に大辞林を置いて、片っ端から辞書を引き引き読んだ。(だから時間がかかってしょうがない)

すると、最初は辛かったのが、読み進むにつれて慣れてきて、だんだんこの文体が気持ちよくなってきた。
無駄や曖昧さがない潔さが魅力。
こういう漢文調の文章というのは、作文の形式として実に優れているのではないかと改めて思う。

結局、漢字をよく知ってるんだよな、この時代の人は。
戦後の漢字制限以降は、音だけに頼った意味の通らない漢字使用が目立つけれども、この時代の人は、漢字一字一字が持つ意味に自覚的だ。

まだまだ食い足りないので、この勢いで明治モノをもっと読んでみようかと思います。

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浦沢直樹がダメな理由

前回のエントリーで浦沢直樹のことを少し書いてたら思い出したこと。

マイ・モスト・フェイバリット漫画家は、迷うことなく高野文子なのだけれども、2002年のユリイカの高野文子特集号における大友克洋との対談で、天才・高野が以下のように語っている。

高野 私は『ヒカルの碁』と浦沢直樹さんのマンガが読めないんですよ。みんな「面白い」って言うのに何故私は駄目なんでしょう? 特異体質でしょうか?
大友 そんなこと俺に訊かれても(笑)。
高野 うちのダンナが好きなので家の中にいつもあるんですよ。どれどれと開くんだけどね。
大友 俺最近全然マンガ読んでないんだもん。でも、なんで読めないの?
高野 絵だと思います。
大友 どっちもそれなりにいい絵じゃない?
高野 上手ですよねえ。でも、息苦しくなるんですよ。よそ見をさせてくれない。次から次へと記号の問題が出てきて、それをひたすら解きながら進むみたいな感じ。のんびり読むこともできないし、読むスピードも決められている。

ごらんのとおり、高野文子は、「何故駄目なんでしょう?」と大友に訊きながらも、ちゃんと自分で答えを出している。
「息苦しい」「よそ見をさせてくれない」「記号の連続」「読むスピードも決められている」、と、浦沢直樹のハリウッド的な作品の本質を、これでもかというくらいに的確にずばりずばりと見事なまでに言葉で表現している。

確かに『YAWARA』も、『Happy!』も、『MONSTER』も、どれもみなよくできていて、どれもみな面白い。
ただ、それは誰が読んでも同じおもしろさであって、誰もが同じ場面でハラハラし、誰もが同じ場面でカタルシスを得る、極めて単一的なおもしろさである。
言い換えると、浦沢作品は、結局、ひとつの読み方しか許容しない。
読者は、浦沢直樹の意図どおりにストーリーを理解し、浦沢直樹の策略どおりに読まされていく。
それに乗っからなければ、楽しむことができないようになっている。
絵は、誤解を許さない正確さで描かれていて、脇見をしたり、しばし立ち止まって考えたりするスキを残さない。
これは、作者本人の全く意図しないところでコアでカルト的な信者を生み出していくいましろたかしのようなマンガ家とは対極にあるスタイルだ。
別の言い方をするならば、浦沢作品には、作品世界そのものしかなく、行間(コマ間?)を読むことを許さない。
ナマの、素の、浦沢直樹が、コマとコマの間にふっと立ち現れる、といったようなことは決して起こらない。

ハリウッド映画は、観ている間はやたらとハラハラさせられたりして、見終わるとどっと疲れるのだけれども、後には何も残らない。
一方、地味で退屈なフランス映画には、一生忘れられないようなシーンやセリフがあったりする。

ハリウッドを全面的に否定するものでは決してないのだけれども、浦沢マンガを「息苦しい」と評する高野文子の感性が好きだ。
そういうことを意識するようになっていたせいか、『20世紀少年』は、連載開始からずっと読んでいたけれども、最後の最後まで面白いと思えなかった。

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2007年9月15日 (土)

いましろたかし『デメキング』を読む

いましろたかし未完の怪作「デメキング」が、2頁書き足されて「完結版」となって復刻。
最初に単行本化されたときのKKベストセラーズ版には、ヤフオクやアマゾンの中古市場でも1万円以上の値が付いていて、さすがに手が出なかったので、遅れてきたいましろマニアにとってはありがたいことよと早速購入。一気に読了。

なるほど、これがいましろたかしの最高傑作とは全く思わないけれども、決して期待を裏切らない佳作だと思う。

巻末にいましろたかし本人へのロングインタビューが掲載されていて、それがめちゃくちゃ面白い。

「デメキング」は、連載しているうちに完全に収拾がつかなくなってきて、編集部にもダメ出しされて、人気もなくって、結局打ちきりになった作品らしいのだけれども、本人にとっても全くの失敗作だったという認識らしく、いかにこの作品がダメであったかを、うだうだうだうだと延々語っている。
本人的には、売れない、金がない、だからストーリーマンガで一発当ててやろうというような意気込みを持って臨んだ意欲作だったらしいことがわかる。
そして、やっぱりそれができなかった、売れなかった、オレはダメだ、というようなことを愚痴っている(笑)。

いちファンの立場から言わせてもらうと、このマンガの魅力は、いましろたかし本人の意図とは全く別のところにあるのであって、誰もいましろマンガにドキドキハラハラのストーリー展開を期待しているわけではない(と思う)。
この不可解で不条理な作品世界だけで十分にチャーミングなのだ。
結局、少なくともこの作品に関しては、いましろたかし本人は、自身の才能をまるで把握しておらず、ダメだ、イヤだ、売れない、金がない、一部のマニアにほめてもらってもしょうがない……、などと愚痴をばかりぼしている。
そのうだうだした煮え切らない物言いが、あまりにもいましろたかしらしくて面白い。
本人は大変なんだろうけど。

読み始めてすぐに思ったのは、この「デメキング」と、浦沢直樹の大ヒット作「20世紀少年」との類似性だ。
結果的には180度違うベクトルのマンガになっているけれども、ストーリーの設定には相通じるものがある。

その当の浦沢直樹が、巻末に2頁ほどの解説を書いている。
いましろと浦沢は同い年らしい。
そして、その同い年の2人が「かたや高知に生まれると『デメキング』、東京に生まれると『20世紀少年』」を描いたというのがおもしろい、と、偶然の一致に感嘆している。
が、個人的にはこれは怪しいのではないかと思う。
全くの邪推だから、勝手気ままなこういうブログでなければ書けないけれども、やっぱり浦沢直樹はこの『デメキング』を元ネタにして『20世紀少年』を発想したのではないかという気がする。

言うまでもなく、ぼくはこの2作品なら、圧倒的に『デメキング』を支持する。
もちろん、いましろ本人にとっては、「……いくら作品を褒められたって、8年たって単行本になって6千部とかって世界ですよ。まあ、名誉はあるのかもしれないけど、それで俺がいくらの金をもらうわけ、とかさ。やっぱり生活が成り立たないですよ。……」ってことなのかもしれないけれど(笑)。

いましろたかし本人にしてみれば、まさにこの浦沢直樹のようなタイプのマンガ家に対して巨大なコンプレックスを感じているのであって、その浦沢がいましろファンを名乗って解説まで書いているのは実に皮肉な構造だ。
しかし、逆に、浦沢の方は浦沢の方で、(おそらく)いましろたかしに対して引け目のようなものを感じているに違いない。

世の中、得てしてそんなもんだよな。

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2007年9月14日 (金)

三宅乱丈『大漁!まちこ船』を読む

三宅乱丈のマンガを初めて読んだのは、ビッグコミックスピリッツで連載していた『ペット』だった。
この作品がかなり好きで、毎週楽しみにしていたのだけれども、いかんせん設定が複雑すぎたのか、ストーリーがややこしかったのか、世間では次第に人気がなくなったようで、掲載頁もだんだん巻末の方になって、最後は、いよいよこれから面白くなるだろうにっていうところで、無理矢理話をまとめるような感じで突然連載終了してしまった。
恐らく打ち切りになったのではないかと思う。

もう詳しいストーリーとかは忘れてしまったけれども、『ペット』の何がいちばん印象に残っているかと言うと、物語の最初からずーっと典型的な悪役だった「桂木(っていう名前だったと思う、確か)」というキャラクターが、終盤になって、実はかわいそうな、案外いい奴だったということがわかる。
そこでぐっと来た。
こういう設定は、ありそうで意外にないのであって、マンガなんかでは特に、いい奴はいい奴、悪者は悪者と白黒はっきり分けられているのが普通だ。
もちろん、ストーリーが長くなるにつれ、最初悪役として登場したピッコロやベジータが悟空の仲間になっていく、というようなパターンは多い。
そういうのではなくて、「悪者っつっても、どこをどう切っても100%悪いわけではなくて、いい面もあるよな」といったような、リアルな表現が『ペット』にはあった。

当たり前だけれども、世間には、「いい人」と「悪い人」の2種類がいるわけではなくて、どんな人間にも「いい面」と「悪い面」の両方がある。
会社ではひどく嫌な奴も、家ではいい父親だったりするかもしれない。
近所ではいい人で通っていた人がいきなり殺人犯になったりもする。
同じ人間でも、見る角度が違えば見え方も違う。

そうやって、悪役を単純な悪役のままで終わらせないところがいたく気に入って、おお、これは急に面白くなってきたぞ、と思ったら、その後すぐに連載が終わってしまった。
何故か週刊誌って、おれの気に入ってるマンガから順に連載切っていくんだよな……。

そういうわけで、久しぶりに三宅乱丈の他の作品を何か、と思い、適当にネットで注文して取り寄せてみたのが『大漁!まちこ船』。
漁師モノかと思ったら、シュールなお笑いモノでした。
一言で言えば、なんじゃこりゃ。
絵がたいへんいいので、損したとも思わないけど、決して得もしてないな。

とにかくこのマンガ家には、かなり特異な才能があると思うので、また『ペット』のような壮大なアイデアの作品にじっくり取り組んでもらいたいと思います。

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2007年9月 6日 (木)

味ごはん

うちの田舎では、味ごはん、と言う。
かしわめし、とも言う。
世間でよく聞くのは、かやくごはんとか、五目ごはんとか、炊き込みごはん、とかだけれども、それらが本当にみんな同じものを指しているのかどうかはよくわからない。
鶏肉を中心に、人参や牛蒡やしめじや、春なら筍なんかを炊き込んだりする、あれです。

一昔前は、少なくともうちの田舎では、年忌だの何だので村の人々を家に呼んでご馳走するとなると、飼っていた鶏を一羽絞めて、この味ごはんをふるまったらしい。
ごく最近にも、田舎の伯父が長らく飼っていた鶏を絞めて味ごはんにしたことがあった。
玉子を産まなくなったから絞めたのであって、若鶏ではないので、肉はガチガチに固かったけれども、皮からはいい按配の脂が出てつやつやとごはんが光り、味も濃厚で美味であった。

さすがに今どきはもう生きた鶏を自分ちで絞めるということは極めて稀だけれども、それでもいまだにうちの田舎の伯父宅の村落では、何かと言うと必ず味ごはんを炊く。
隣りが何回忌だっただの何だの、そういうので、よくお裾分けの味ごはんをもらう。
今年の盆に墓参りに行ったときも、夜になって盆踊りに出かけたら、会場では味ごはんが無差別にふるまわれていた。

そして、うちの伯父宅で作る味ごはんも、その隣家で炊く味ごはんも、そのまた向こうの家の味ごはんも、盆踊りでふるまわれる味ごはんも、全てだいたい皆同じ味である。
決して世間一般によくある味というわけでもない。
コンビニのおにぎりになってるやつや、外食で口にするものとはずいぶん違う味だ。
それなのに、うちの田舎の一帯では、どこの家が作ってもみな同じような味になる。
愚妻も、「何処の家のもみんな同じ味!」と最初は驚いた。

田舎では、村の人たちを呼んでご馳走するということになると、近所の女の人たちがみんなその家のお勝手を手伝いに集まる。
それでみんなで協力して味ごはんを作る。
そうやっているうちにレシピが共有され、多数の女性の手によって次第に改良・改善が加えられ、結果、ご馳走料理である味ごはんは、どこの家でもだいたい同じような味になったのだと思われる。
出来不出来、得手不得手は当然あるのだけれども、基本レシピはみな同じに違いない。

うちの母親は、その基本レシピに個人的な改良を加えたのか、何か特別なコツがあるのか、基本は同じ味なのだけれども、村一帯に共通した水準から頭ひとつ抜けた、ほんの少しレベルの高い味ごはんを作ることができる。
ごはんがべったりせず、つやつやと光って美味い。
自分が食べるのは嫌いらしいのだけれども、自他共に認める数少ない得意料理のひとつであって、それだけに子供の頃からうちの定番メニューだった。

うちの親父は、昔から、味ごはんを食うと、鶏肉だけ分けて食べ残した。
肉がいちばん美味いのに、と子供の頃は思っていたけれども、近年だんだんその気持ちがわかってきて、いつしか自分も鶏肉だけ残すようになった。
味ごはんの鶏肉はしょせんだしガラだ。

また、親父は、味ごはんをお茶漬けにする。
薄めにいれた熱いお茶を、冷めた味ごはんに注ぐ。
鶏の脂が表面に浮いて見栄えはあまりよろしくないし、いかにも下衆の食い物といった趣だけれども、美味い。

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2007年9月 3日 (月)

せざる・をえない?

いろいろバタバタしておりまして間が空きましたが、前回の流れで、またひとつ思いつきました。

「○○せざるを得ない」、という言い方がありますけれども、あれを、「せざる・をえない」と分節して発語する人、結構多くないですか?
その言い方を聞いていると、おそらく彼らは、「せざる・えない」、と勘違いしているのではないかと思われます。
そういう感じのイントネーションで発語してます。
「おえない」って何? 負えない? 終えない?

「○○せざるを得ない」というのは、無論、「せざる(=しない)」という状態「」、「得ない(=可としない)」の意であって、「しないわけにはいかない」という意味でしょう。
2つに分節するなら、「せざるを・得ない」であって、「せざる・を(お?)えない」ではたいへん気持ちが悪い。
日常の会話でも間々用いる表現なので、音から覚えた人が何か勘違いしてしまっているのだと思います。

もうひとつ思いつきました。
「どこからともなく」、という表現がありますが、あれを、「どこから/ともなく」と分節して発語する人、多くないですか?
「どこからともなく」、というのは、無論、「特にどこからというわけでもなく」、の意であって、敢えて2分節するならば、「どこからとも・なく」でしょう。

いや、「どこからともなく」というのは通常一息に発語しますから、「どこから」と「ともなく」の間にブレスが入るわけではないですし、「どこからともなく」は完全にひとかたまりのセットフレーズ化してますから、逆に「どこからとも・なく」と理屈どおりのイントネーションで発語することの方がむしろ不自然に感じられるのもわかります。
でも、発語者の微妙なイントネーションから、このセットフレーズが、「どこからとも/なく」であるということを正しく理解している人と、何も考えずに「どこから/ともなく」というミーニングレスな分節を行っている人の違いは、やっぱりわかってしまいます。
具体的に言うと、「どこからともなく」を、 ̄___ ̄___ (高低低低高低低低)というイントネーションで発語する感じがどうも好きではありません。
これは恐らくわかっていない人のイントネーションでしょう。
願わくば、 ̄___ ̄_ ̄_ と発語していただきたい。もしくは、_ ̄ ̄ ̄ ̄_ ̄_、か。

それでまたもう一つ思い出しましたけれども、「(モノなどが)なくなる」というのを、本来の構造どおりに、「なく・なる」、つまり、 ̄_ ̄_ と発語する人が年配の人にはときどきいて、そういうのを聞くと少し嬉しい気分になります。
「なくなる」という言葉は、それでひとつの自動詞のように意識されていることが多いですが、よく考えると、(て言うかそれほど考えるまでもなく)、これは「無いように・なる」の意であって、例えば「暗くなる」とか「赤くなる」とかと同様に、「無く・なる」と発語されてしかるべきだろうと思うわけです。
そして、実際にそのように発語する人がたまにいます。
「かくなる上は」っていうのは、「このようになった以上は」の意でしょうけれども、その「かくなる」と同じイントネーションで「なくなる」を発語するおじさんおばさんが好きです。

でも、だんだんそういう味わい深い日本語を話す世代も、前線からは退去しつつあるようで、寂しい限りであります。

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