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2007年8月

2007年8月21日 (火)

それはちょっとうなづけません

前回のエントリーから派生しました、「うなづく」or「うなずく」、の問題について、その後、つらつらとネットを検索しておりましたところ、意外な事実がわかってきましたので、報告します。

結論から言うと、国は、内閣告示「現代仮名遣い」(昭和61年7月1日)なるものによって、「ジ」「ズ」と発音するものは、原則的に「じ」「ず」と表記すると決めちゃっているとのこと。
つまり、何でも「じ」「ず」と書くのが基本
ただし、例外として、「ぢ」「づ」を用いる場合として、以下のようなパターンを挙げている。

(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
例)  ちぢみ(縮)、ちぢむ、ちぢれる、ちぢこまる、つづみ(鼓)、つづら、つづく、つづめる、つづる、
[注意] 「いちじく」「いちじるしい」は,この例にあたらない。

なるほど。まずは納得。
次。

(2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」
例)  はなぢ(鼻血)、そえぢ(添乳)、もらいぢち、そこぢから(底力)、ひぢりめん、いれぢえ(入知恵)、ちゃのみぢゃわん、まぢか(間近)、こぢんまり、ちかぢか(近々)、ちりぢり、みかづき(三日月)、たけづつ(竹筒)、たづな(手綱)、ともづな、にいづま(新妻)、けづめ、ひづめ、ひげづら、おこづかい(小遣)、あいそづかし、わしづかみ、こころづくし(心尽)、てづくり(手作)、こづつみ(小包)、ことづて、はこづめ(箱詰)、はたらきづめ、みちづれ(道連)、かたづく、こづく(小突)、どくづく、もとづく、うらづける、ゆきづまる、ねばりづよい、つねづね、常々)、つくづく、つれづれ

ふむふむ。これも特に異議なし。
「はな+ち」=「はなぢ」等々、前回のエントリーで書いたとおり、どれも2語の連合による音便化の例として納得できる。
問題はこのあと。
(2)にはまだ続きがあるのだ。

なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
例)  せかいじゅう(世界中)、いなずま(稲妻)、かたず(固唾*)、きずな(絆*)、さかずき(杯)、ときわず、ほおずき、みみずく、うなずく、おとずれる(訪)、かしずく、つまずく、ぬかずく、ひざまずく、あせみずく、くんずほぐれつ、さしずめ、でずっぱり、なかんずく、うでずく、くろずくめ、ひとりずつ、ゆうずう(融通)
[注意] 次のような語の中の「じ」「ず」は,漢字の音読みでもともと濁っているものであって,上記(1) ,(2)のいずれにもあたらず,「じ」「ず」を用いて書く。
例)  じめん(地面)、ぬのじ(布地)、ずが(図画)、りゃくず(略図)

おいおい、それでいいのか。

要するに、ほんとは2語の連合なんだけども、「現代語の意識では一般に二語に分解しにくい」から、「じ」「ず」と表記することを本則とする、と。
でも、なんだったら別に「ぢ」とか「づ」とか書けば?、みたいな。
みなさん疑問をお持ちであった、「うなづく」も「ひざまずく」も「ひとりずつ」も、みなこの範疇に分類されている。
つまり、このブログにコメントを書き込んでくださる皆さんは、例外的に「一般の現代語の意識」よりも高いレベルの知性を持ってしまった方々だということになる。
そして、そのような知性を持ってしまった人々は、残念ながらそのような知性を持ち合わせなかった「一般の」人々に合わせて、気持ち悪いかもしれないけれども「じ」「ず」と表記するのを「本則」としろ、と。
だけど、別に「ぢ」「づ」って書いたってかまわんよ、と。
そういうことになる。

いや、確かに前回のエントリーにコメントつけてくれた方々の知性が高いことは重々承知している。
しかし、「世界中」を「世界+中」に分解できることが「一般的な意識」ではないというのはいかがなものか。

ちなみに、やっぱり「うなづく」は、調べてみると、「項(うな:「うなじ」に同じ by 広辞苑)+肯く」、つまり「うな+つく」であって、この因数分解ができる知性を持った人にとっては、どうしても「うなづく」でなければならないだろうと思う。
「ひざまづく」のは、「ひざま+つく」なのか、「ひざ+ま+つく」なのか、「ま」の意味がアホやからわからへんが、とにかくどうやら膝をついているっぽいというのはアホだけどわかる。
「頷く」「跪く」という表記ができてしまっている以上、「現代語の意識では一般に二語に分解しにくい」というのもわかる気はするけれども、だからと言って『もうわかりにくいから「じ」と「ず」でいいじゃん』的な安易な妥協案というのはいかがなものか。

個人的には、「いなずま」とか「でずっぱり」とか「くろずくめ」とか「ゆうずう」とか、相当違和感ある。
いや、それ以前に、「じ」と「ず」が本則だけど別に書きたかったら「ぢ」とか「づ」とか書いてもいいよ、みたいなやる気のなさはそもそもどうなのよ。

「じ」なの? 「ぢ」なの? どうなの? と、こっちは何となく気持ちが片づかなくて騒ぎ立てて、こういう些末なことであーでもないこーでもないと言ってちょっと面白がったりもしているっちゅうのに、挙げ句に出された答えが「別にどっちでもいいです」ではしらけるではないか。

ともあれ、『「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする』というギリギリのお許しはいただけるようなので、私の知性の及ぶ範囲内においては、できる限りは「ぢ」「づ」で通してやろうと思う。

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2007年8月12日 (日)

世論、読本、地震

「世論」は、「よろん」と読むのであって、「せろん」ではない。
昔、そのように教わったので、「せろん」は間違いであるとずっと思っていたのだけれども、最近は「せろん」の方が多数派になってきたようで、テレビなんかでも「せろん」って言ってる奴がいるのが何となく気にくわない。
辞書で調べた限りでは、世論はもともと「輿論」であって、紛れもなく「よろん」なのだけれども、戦後の漢字制限で「世論」という表記が用いられるようになり、以後「よろん」と「せろん」があいまいになった、ということのように思われる。
してみると、「世論」が、「輿論」という語の表記方法だけを代替したものであると解釈するならば「せろん」は間違いだが、「輿」という漢字が使えなくなった際に、「世論」が「輿論」という語そのものを代替する別の語として発明されたというのならば、「せろん」という読みも必ずしも間違いとは言い切れなくなる。
そう言われれば、「世」を「セ」と読むのは音読みだが、「よ」と読めば訓読みになる。
「論(ロン)」は音読みだから、そういう意味では「セロン」が自然であって、「よロン」というのはいわゆる湯桶読みだ。
それでもやっぱり「せろん」が気にくわないのはおさまらない。

「文章読本」は「ぶんしょうとくほん」であって、「ぶんしょうどくほん」ではない。
しかし、身の回りの人々がみな口を揃えて「どくほん」と言うので(国語教師さえもが)、心配になって辞書で確認したことがある。
そしたらやっぱりこれはどうしたって「とくほん」であって、「どくほん」でも構わないという法はない。
にもかかわらず、これまで、「ぶんしょうとくほん」と正しく読む人に接することの方が逆にまれなくらいなのはどういうことか。
たまたまでしょうか。

いや、他人の誤読を責めることができるほど自分がしっかりしているわけでは決してないですよ。
実際、二十歳を過ぎるまで、「相殺」は「そうさつ」、「御用達」は「ごようたつ」だと思ってたし。
自分の間違いは気がつかないけれども、他人の間違いは気になるだけです。もちろん。

あと、ちょっと話は違うけれども、地震を平仮名では「じしん」と書くのが、昔から納得いかない。
「地」の読みは「ち」であって、それに濁点がついたら「ぢ」じゃないの?
「ぢしん」ぢゃないの?

本来、「じ」と「ぢ」は、音も違う。
しかし、日本人は、「じ」と「ぢ」の音の違いを、意識の上では区別していない。
音声学上のややこしい話は省略するけれども、「地震」と発語するときの「地」の音と、「大地震」と発語するときの「地」の音は、違っている。(敢えて言うなら前者が「ぢ」で、後者が「じ」)
その発音の違いによって「ぢ」と「じ」を区別するような仕組みに日本語はなっていないのだから、「ぢ」なのか「じ」なのかという問題は、「ち」に濁点なのか「し」に濁点なのかという方面からしか合理的な整理ができない。
「鼻血」は鼻から出る血(ち)だから「はなぢ」だし、「身近」は自身に近(ちか)いことだから「みぢか」である。
「お茶漬け」はお茶に漬(つ)けるから「おちゃづけ」だし、「片付け」は片を付(つ)けるから「かたづけ」だ。
なのに、「地震」は何故「じしん」なのか。

そう思って、今、念のためオンラインの漢和辞書で「地」を引いてみたら、音読みとして「チ・ジ」となっている!
あ、そうか、「ジ」はもしかして「チ」に濁点がついたわけではなくて、もともと「チ」と「ジ」の2種類の音読みがある、と……そういうことか!
そう言われれば、「はなぢ」は「はな+ち」の音便だし、「みぢか」も「み+ちか」の音便だけれども、「じしん」はそうじゃないもんな……。

すいません、これはこれにて解決、か。
やっぱり文章に書いて整理してみるっちゅうのは大事だな(笑)。
失礼しました。

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