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2007年6月 7日 (木)

村上春樹『意味がなければスイングはない』を読む

村上春樹の音楽評論(?)集。
読み始めたのが去年の3月で、この日曜日に読み終えたので、1年と3ヶ月くらいかかった。
別にそんなに丁寧に読んでいたわけではなくて、去年に1、2編だけ読んでほったらかしてあって、残りはここ2週間くらいでまとめて読んだのである。
ほったらかしてあったのも、つまらなかったわけでは全然なくて、他の本を同時に読み始めたら忘れてしまってそのまま埋もれていたというだけだ。
むしろ、かなりおもしろかった。

ご存知のとおり村上春樹は音楽の聴き手としてもプロ級であって、独自の切り口も持っている。
おもしろくないはずがない。
ただ、本人も書いているとおり、そもそも音楽を文章で表現するというのは非常に厄介な仕事であって、しかも村上春樹のような立場であればそうそう下手なこともできないだろうから、それなりの決意を持って取り組んだ作業だろうと思う。

プロの音楽評論家ではないというエクスキューズはあるかもしれないが、逆に当代随一の小説家であるという事実もある。
結果的には、たいへんおもしろいものになっているとは思うけれども、やはり「あの村上春樹にしては」という前置き付きで、えらく凡庸なオチだな、とか、ずいぶんありきたりな表現だな、とか感じるような箇所もわりとあった。

それから、比べるのもおこがましいけれども、音楽の聴き方と言うか、音楽を評価する基準が自分と似ているようにも感じた。

ひとつには、ジャンル横断的な聴き方をすること。
実際、この本でも、得意のジャズからクラシック、ロック、カントリー、Jポップまで、幅広く取り上げられている。
ジャンルにこだわらないというのは、単にいろんなタイプの音楽が好きということではなくて、むしろ、本人の意識としては、わりとどんなタイプの音楽に向き合っても、聴き方としては一定なのではないかと思う。
だから、クラシックのピアニストを語るときも、スガシカオを語るときも、評価軸みたいなものがあまりブレない。

特に読んでいて共感が深かったのは、ウィントン・マルサリスを取り上げた1編。
現役ジャズ・ミュージシャンの中では図抜けた技術を持つウィントンの音楽がかくも退屈なのは何故か、ウィントンのどこがダメなのかということをじっくりと丁寧に書いている。

超絶テクを持っているというだけでそこには十分聴くだけの価値があるとするタイプの聴き手も多い。
そういう聴き方を決して否定するものではない。
当たり前だけれども、音楽において演奏技術は決定的に重要であって、原則的にそれなしでは音楽は成立しないし、技術が高すぎて困るということは決してない。
しかし、ウィントンの例のごとく、技術の高さは、必ずしも音楽の感動の深さと比例しない。
「技術の高さ=音楽性の高さ」であり、下手は一切認めない、といったようなことを言われると、抵抗を感じる。

結局、ぼくは、どんなジャンルの音楽を聴いていても、全てを「ソウル・ミュージック」として聴いているのではないかと思うことがある。
もちろん、それは60年代や70年代の黒人音楽であるところの、あの、いわゆるソウル・ミュージックではなくて、文字どおり、プレイヤーの「ソウル」が感じられる音楽、という意味で。

演奏を通じて演奏家の「ソウル」が自在に表現される(或いは、滲み出る)ようになるには、通常、それだけ楽器を自在に操るだけの技術が必要なはずであって、その意味において演奏力というのはやはり基本中の基本だ。
でも、演奏力が高いことは、必ずしもその演奏家の「ソウル」の質を担保しない。
技術さえあれば全てよしということにはならない。
めちゃくちゃ上手くてもなんか感じ悪ーい演奏というのは、確かにある。
逆に、演奏力が低くとも、何かの加減で、(多くの場合は演奏者自身にも無自覚なまま)、たいへんチャーミングなソウルがそこに現れることは、いくらでもある。

原則的に、ぼくはそのように考えている。
ような気がする。
もちろん話はそう単純ではないのだけれども。
そして、村上春樹は、おそらくこのような言い方に肯定的であろうと思う。

村上春樹は、クラシックも聴くけれども、この本を読む限り、器楽曲が多い。
特に、ここで取り上げられているのはピアノ・ソロばかりだ。
ぼく自身はクラシックはあまりよくわからないのだけれども、独奏なら概ね大丈夫。
ピアノ・ソロなら、ジャズでもクラシックでもポップでも、正直、何も変わらないと思う。

要するに、村上春樹は、「人」が好きなのだと思う。
音楽を通じて、いろんな人のいろんなソウルに触れることを楽しんでいるのだと思う。
そして、他のどの芸術表現と比べても、音楽を通じて触れることのできる「ソウル」は格別なものなのだと感じているに違いないと思う。
反応するポイントはぼくとは少し違うのだけれども、村上春樹がそういうふうに音楽を聴いているということが感じ取れて、なかなかいい本だと思った。

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コメント

俺も、何かの想いを込めているのが感じられた時、好きになるな。それが言葉であったり、音の組み合わせであったり、聞き手に何かを表現しようとしているのが表れた(ように感じられる)ときにぐっとくる。やっぱり上手とか下手とかはあんまり関係無いし、いい音は気持ち良くて、それにこしたことないけど、極端なこというと、安物の小さなモノラルスピーカーでも問題ないかも。
あんまり小遣いが無かった時、どのレコードを選ぶかはなかなか大変な決断だったけど、決めてはそれだった。決断のために?ラジオ聴いたり本読んだりしてたのかも。そういう音楽は次も作って欲しいからお金をきちんと出して買った。
(感じるといっても、自分の感覚でしかないので、説得力に欠けるわな?)
m-rikiのいうきょんきょんのメモリーの部分っていうのは、俺のヒューイルイス&ザニュースのハートオブロックンロールのある瞬間が好きなのと同じで、なんとなく解る気がする。
(変なこと書いたかな???)

投稿: torrisey | 2007年6月 8日 (金) 00時36分

>でも、演奏力が高いことは、必ずしもその演奏家の「ソウル」の質を担保しない。

禿同っす。言い換えると演奏力がなくてもソウルは伝わるが、下手すぎもあかんよ・・ってな感じですかな(爆)

投稿: KG | 2007年6月 9日 (土) 08時02分

確かにウィントン・マルサリス論は白眉だよね。あと、ブライアン・ウィルソンのライブをハワイで見る話が好きだなあ。

別の本で綾戸智絵を褒めているんだけれど、それだけはよくわからん。

投稿: chinsan | 2007年6月 9日 (土) 22時35分

KG師匠、ご無沙汰です。演奏には、ほんと、人となりが露骨に出ますよね。で、人の好き嫌いと、その人の演奏の好き嫌いは必ずしも一致しなかったりしません? 音楽というのは、人の性格をも高い純度で抽象化してみせるのではないか、というようなことも考えてみたりします。
確かにブライアン・ウィルソンの話は他より2割増しくらいで力入ってる感じですね。個人的には、シューベルトとか、ゼルキンとルービンシュタインとか、クラシックピアノの話もツボでした。(→chinsan)

投稿: riki | 2007年6月11日 (月) 22時11分

ふーん。ウィントン・マルサリスについては、Ken Burns の Jazz というドキュメンタリーでのウィントンのコメントについて、賛否両論だったよ(知ってるかもしれないけど)。いやだ、と思っている人は「オマエがジャズを定義するんじゃねぇ!」という意見。リンカーンセンターでジャズを奏でるウィントンの姿勢に「THE JAZZ」と悪口をいうタイプ。好意的に受けている人は「やっぱ音楽よく知ってるよなー」です。確かにすごく面白いコメントなの。でも、私は何度かライブコンサートに行ったけど、場所がさー、スタンフォード大学の講堂とかサンフランシスコシンフォニーの会場、とか、すっごいビッグバンドを連れてくるからしょうがないんだけど、観客が違うの。みんなインテリ。

あとでインテリの人は「分析」したりして音楽を語るでしょう?だから、ウィントンの名が語られることはとても多いんだと思うわ。

投稿: きょうたん | 2007年6月12日 (火) 06時36分

しまった、ハンドルネームを間違えてしまった。きょうたんこと、ショーエでした。

投稿: ショーエ | 2007年6月12日 (火) 06時38分

そう、だから正に、「うっとーしい優等生」タイプなのよね、ウィントンは。そういうところを指して村上春樹は「田舎臭い」と評してます。誰にも頼まれてないのに場の空気も読めずに教室の前にしゃしゃり出て、「ジャズとは……」ってしたり顔で語りはじめる優等生を、「うっとーしい」と感じる人もいれば、「この人すごいな」と尊敬してしまう人もいる。私は前者のタイプですが。

投稿: riki | 2007年6月12日 (火) 20時52分

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