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2007年5月26日 (土)

歌詞における意味と音

内田樹のブログは毎日おもしろいけれども、5月17日のエントリーはとりわけおもしろかった。
ほんとは読んでもらうといちばんいいのだけれども、要するに要点は、

『私どもはポップスの歌詞を意味レベルで評価する傾向があるけれど、人間の声が「楽器」である以上、歌詞における音韻の選択には必ずや歌手ごとに「偏り」があってしかるべきなのである。』

ということです。
でも、後半の各論がとてもおもいしろいので、是非読んで下さい。

また、遠くさかのぼりまして、2005年8月23日のエントリーでも、よく似たことが語られている。
ほんとは読んでもらうといちばんいいのだけれども、なかなかそうもいかないだろうから、重要なところを抜粋します。

『音声を意味で聴くひとは、音声そのもの持っているフィジカルな現実変成の力を軽んじるが、音声の力を侮ってはいけない。
古代中国には「嘯」という発声法があった。
「うそぶく」と訓じるが、もともとは口笛を吹くような鋭い音だったのではないかといわれている。
これは「破邪顕正」の呪法のひとつである。
「笑い」もそれに同じく、破邪の呪法である。
だから、鞍馬天狗や月光仮面や七色仮面や桃太郎侍や水戸黄門は登場するときには「はははははは」と哄笑したのである。
あれは何かおかしいことがあって笑っているのではない。
その場に漂う邪気を祓うために呪を行っているのである。』

『音楽の分析において和音進行や歌詞についての研究は無数にあるが、音声・音韻の持つフィジカルな力に着目したものは少ない。
私はひさしくポップスの魅力の本質は「音声」そのものにあると考えてきた。
それは和音や歌詞はローカルな文化に属するけれど、音韻がもつ現実変成力はある意味で「超歴史的・超空間的」に同一であるような気がするからである。
私が50年代末にはじめてエルヴィス・プレスリーをラジオで聴いたとき、私は英語の歌詞をもちろん一語とて理解できなかったけれど、その「声」はダイレクトに身体にしみこんだ。
エルヴィスの発する音声はほかのどの歌手の出す音とも違っていた。
それは微妙に震動し、動物的な「ぬめり」があった。
私が聴いていたのは、歌詞でもないし、サウンドでもないし、リズムでもなく、「声」そのものだった。』

『90年の歴史をもつハリウッド映画には興行収入や観客動員数や文化的影響において華々しい記録をもつ無数の映画が存在するが、五大陸のすべてでヒットした映画はひとつしか存在しない。
ニューヨークでも北京でも、ナイロビでもホノルルでも、東京でもイスタンブールでも客が押し寄せた唯一の映画。
人種、宗教、言語、風俗を超えて圧倒的な支持を得た唯一のハリウッド映画、それは『燃えよドラゴン』である。
世界どこでも、映画館を出た若者たちは、そのまま空中に躍り上がって「アッチョー」と絶叫したのである。
ブルース・リーが発したこの「怪鳥音」と呼ばれた音声はあるいは中国古来の呪法の流れを汲むものではないかと私は想像している。
その「音」は観客をおそらくは分子レベルで震撼させたのである。
音は意味よりも深く遠い。』

ほとんど全部抜粋してしまいましたが。

そう、正に、私どもはポップスの歌詞を意味レベルで評価する傾向がある。
一般の音楽誌等で、音楽評論をその都度的に読み物として成立させようと思ったら、どうしても意味レベルで歌詞を評価するのが手っ取り早い。
しかし、実際には、「音は意味よりも深く遠い」のだと内田樹は言う。
その通りだと思う。

古い話で申し訳ないけれども、学生の頃、自分も関わっていた某音楽誌に、おおよそ次のようなことを書いたライターがいた。
曰く、『小泉今日子の「スターダスト・メモリー」は、「♪スターダストメモーリー」って歌う、その「メモー」のところがかわいい』、と。
最初は笑って読んでいたのだけれども、よくよく反芻してみると、なるほど確かに「メモー」のところがかわいいし、それは実はこの決して歌のうまくないアイドルをチャーミングに見せる上で、かなり重要な働きをしてるような気がしてきた。
「メ」と「モ」はどちらもマ行だけれども、これは「口唇音」と言って、唇を閉じた状態から発声する音である。
その連続がある種のたどたどしさとけなげさを醸し出すのだと思う。
理屈はともかく、こういうことは大事なんじゃないか。歌詞は意味も大事だけれども音韻の選択も重要なのではないか、と、それ以降、意識して考えるようになった。

歌詞というのは、実に語るのがやっかいなテーマだ。
そこには、多様なファクターが複合的に作用するからだ。

内田樹は、かねてから歌詞における音韻の選択についてよく言及する。
また、音声そのもの、人の声が持つ「現実変成力」というのも、実に示唆に富む指摘だ。
しかし、かと言って、やはりそれは言葉なのだから、そこには「意味」も発生する。
音は意味よりも深く遠いけれども、じゃあ意味はどうでもいいかというと、決してそうとは言えない。
いくら音韻の選択が耳に快くとも、意味が否応なしにそれなりの文脈を生み出してしまう。

また、例えば、音韻が巧みに選択された歌詞があるとする。
しかし、それは、誰が歌っても同じように作用するわけではない。
このシンガーがこの声でこういう音韻を歌うと気持ちいいけれども、あのシンガーではまるでダメ。ということはいくらでもある。
また、この人がこの声でこういう「意味」を歌うとかっこいいけれども、あの人では気持ち悪い。ということもいくらでもある。
大瀧詠一は鼻濁音が上手だったり、キョンキョンはマ行がかわいかったりする。
同じ歌をうたっても、他のシンガーではそうはいかないかもしれない。

人が歌をうたうとき、その歌詞の、「意味」と「音韻」と「声」は、常に複合的に作用するのであって、本当はどれか1つを切り離して論じても意味がない。
あるシンガーが、その声で、そのような音韻で構成されたそんな意味内容を持つ歌をうたったときに、全体としてどのような結果が生じるか、というのが「歌」の価値になる。
もちろん、歌詞がどのようなメロディに乗っているか、どんなリズムでどのような符割りになっているのか、というようなことも、また別の位相で決定的な重要性を持つ。
もっと言うと、歌っているときのシチュエーションや着ている服、その人のキャラクターやイメージも無関係ではないのだけれども、そこまで行くともうたぶん収拾がつかなくなります。

……という話を書き始めると、1ヶ月くらいは連載できるのではないかと思っていて、ずっとあたためているネタなんだけれども、話が膨大すぎて、どこから手を着けていいのかわかりません。
そのうちやる気が出たら、「音楽と言葉」とか「歌にとって歌詞とは何か」とか、背骨が反り返るくらいの大上段のテーマで書き始めるかもしれませんが、可能性は低いと思うので安心して下さい。

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コメント

早期連載開始を熱望します。たとえば、

どんとの無意味な掛け声。
スティングの雄叫び。
ブーツィの張りのある「ハレルヤ」。
初期松田聖子の、伸びやかな声。
南野陽子の「瞳でネット」の「ネット」。

といったところを触れていただけたら。
(歌詞はあんまり関係ないか)

投稿: chinsan | 2007年5月26日 (土) 13時01分

訂正
「吐息でネット」でした。

投稿: chinsan | 2007年5月26日 (土) 13時04分

いいテーマだと思います。
実に興味深い。

投稿: torrissey | 2007年5月26日 (土) 16時23分

→chinsan いや、考えてるのは、そもそも「歌」とは何か、とか、歌とインストゥルメンタルの関係、とか、そういう壮大なテーマなんです(笑)。とは言え、やっぱり楽しいのは各論なんすよね。挙げて頂いた例、どれも全く同感ですが(このテーマはやっぱり個人の趣味じゃなくて、誰もが共有できるツボでないといけないと思います)、「スティングの雄叫び」っちゅうのはポリス時代?
できればどのアルバムのどの曲の何分何秒頃のココ!みたいな事例をたくさん集めたいと思ってますので(笑)、また気が向いたらご協力願います。
→torrissey 昨夜はどうも! そういう趣旨なので、よろしくです。

投稿: riki | 2007年5月27日 (日) 01時39分

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