松田聖子と椎名林檎は同じである(2)
マーク・ネヴィンの書くあまりにロマンチックで情緒過多な詞も、エディ・リーダーが歌うと思わずその気にさせられてしまう…………というようなことを、ずっと以前、フェアグラウンド・アトラクションについてのエントリーで書いた。
それが「歌」の力である、と。
歌詞にもいろいろある。
言葉だけ取り出してもそのまま現代詩として成立するようなよくできた歌詞がある一方、歌詞カードだけ読んでいたらどうしようもなく頭悪そうなくだらない詞も世間にあはふれかえっている。
しかし、当然ながら、歌詞は文学ではない。
歌詞が文学的である必要は、必ずしもない。
ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンの書く詞のように、そこに高度な文学性が発生する余地はもちろんあるし、それが悪いことであるはずもないけれども、一方でまるで文学的でない、質の低い言葉が、「歌」になった途端にとてつもないチャームを生み出す、というようなこともいくらでもある。
同じ「I love you」と歌っても、ジョン・レノンが歌うのと尾崎豊が歌うのとでは、(比べるのも失礼だけれども)、説得力がまるで別モノだ、ということが起こる。
陳腐な言葉でも、歌の力でその気にさせられてしまう、ということはある。
I love you という陳腐な言葉が、歌の力によって、これまで聴いたことのないような新しい「I loove you」になる。
「歌」には、そのように言葉を再生させる力、言葉を別の次元に持っていくマジックがある。
使い古され、陳腐化した言葉が、メロディやリズムや歌い手の声そのものや歌の技術によって、甦ることがある。
アイドル時代の松田聖子の詞は、そのほとんどを松本隆が手がけている。
松本隆は、プロとして、きっちりと「アイドルのための」仕事をしている。
それはもちろん決して質の低いものとは思わないけれども、なんつっても当時のアイドル向けに作られた詞である。
そもそも松本隆は、内容よりも、響きのよさやムードで言葉を選ぶ作詞家だ。
そこに描かれているのは、結局は、中2女子の恋愛観っちゅうか、B級少女マンガの世界っちゅうか、まあそのようなものなわけである。
しかし。
そのような、もうとっくの昔に陳腐化していたはずの世界が、松田聖子の歌によって見事に再生する。
くだらないこと歌ってるなあと思いながらも、半ばその気にさせられていく。
詞の情景がありありと眼前に浮かぶ。
あきらかにだまされていると知りながらも、だまされているのが快く思われてくる。
松田聖子は、テレビでは、万人が突っ込まずにはいられない「ぶりっこ」ぶりを披露していたわけだけれども、歌の中では、与えられたキャラを完璧に演じきり、聴く者全てを100%その気にさせることができた。
前回のショーエのコメントにあるように、「テディベアを抱いて滑り台を滑りながら舞台に登場したりする」シーンには誰もがずっこけても、歌の中では、テディベアを抱いている松田聖子が全然OKになる。
松田聖子のリスナーは、生身の松田聖子が発する女としてのフェロモンに反応していたわけではない。と思う。
敢えて言うなら、「歌の中の松田聖子」に惚れていたのであり、それはすなわち、歌の中で細部まで完璧に作り上げられたリアルなつくりものの世界とその肌ざわりに心酔していたのである。
だからこそ女性のファンが多いのだ。
生身の松田聖子に自分を重ね合わせることはできずとも、歌の中の松田聖子にシンクロするのはいともたやすい。
いや、松田聖子は、その歌の力で嫌が応にもリスナーを歌の中に引き込む。
では、具体的なワザを少し見てみます。
松田聖子の歌唱力のピークは、ずばり82~83年頃だと思っている。
デビュー当初から全然上手いし、最初期は最初期で溌剌とした若さがあっていいのだけれども、押す一方で、巧みな「引き」のテクニック、緩急の妙がまだ身に付いていない。
逆に、90年代になってくると、ちょっと上手すぎると言うか、技に溺れると言うか、あざとさが見えると言うか、そういう感じが出てくるし、何より声が老いてくる。
ベストの1枚としては、82年の『パイナップル』を推します。
これはぼくが当時(レンタルじゃなく)自分で金を出して買った唯一の松田聖子のアルバムなので、個人的な思い入れが強いだけだと言われても仕方がないけれども、その前後の「キャンディ」「ユートピア」あたりを含めて、やはりこの辺が歌い手としての最盛期だと思う。
ぼくが気付いた具体的な松田聖子の技の数々。
・基本はウィスパー系の発声から一転張りのある明るい声へというコンビネーション。
・タ行をもたつき気味に、たどたどしい感じで発音。
・ラ行は、舌っ足らずな感じで、英語のL音に近い。
・ナ行も甘ったるくN音を強調。「ね」は「んねー」的に。
・「う」「す」「つ」等、ウ段の音は、必要以上に口をすぼめてかわいらしく。
・濁音は注意深くそーっと発音し、清音との中間のような発声。例えば「じ」は「し」に近い音で、等。
・この前書いたキョンキョンの「スターダストメモリー」の「メモー」の例のように、マ行を幼い感じでまったりと発音する。とくに「モ」がかわいい。
・ブレスの切れ目やロングトーンの終わりで跳ね上げる。今では誰もがよくやる技術だけれども、最初に確立したのは松田聖子か。
・ブレス音は敢えて大仰に。「息が切れてる感」により、セクシュアリティやけなげさを演出か。(さらにそのブレス音が強調されるようなイコライジングが施されている。技術的なことはよくわからないけれども、中高域あたりのどこかをぐいっと上げてやるんだったと思う。これはサ行をも強調する。松田聖子に限らず、ウィスパー系、ハスキー系のシンガーにはよく使われる処理だ。)
……いや、こういうの列挙しても意味ないな。
要は、こうした細かい技を随所随所で的確に駆使しながら全体の緩急を組み立てていく構成力、コンビネーションの妙。そこがすごい。
作詞家の意図を120%活かして、要所要所で的確にそれぞれの言葉のツボにはまった技を展開する反応のよさたるや恐るべし。
自分をアイドルらしく、かわいく見せる術を完璧に把握していて、それを抜群の反射神経で次々に繰り出しながら、全体を巧妙に組み立てていく技術がすごいのだ。
そしてその高い技術ゆえ、歌の中では、決してそれがテディベアで滑り台的な「やりすぎ」感を与えない。
注意深く聴いていると明らかに演出過多なんだけれども、全体としてそれが嫌味でない。
どこまでが意識的でどこまでが本能的な技術なのかはわからない。
しかし、少なくとも松田聖子を聴いていると、こいつにはリスナーにとって何が快いか、自分のひとつひとつの技によってリスナーがどのような印象を抱くか、といったようなことの全てが極めてクリアに見えているのではないかと思えてくる。
緻密な計算とそれを裏付ける確かな技術によって、自分のイメージとリスナーの心理を完璧にコントロールしているような印象を受ける。
やっている音楽もシンガーとしてのタイプもまるで違うけれども、そうしたところが、椎名林檎と非常に近い気がするのだ。
「男が何を考えているのかを全て察知する」タイプに見えるのは、こうした印象によるものと思われる。
敢えて技術的な弱点を言うならば、リズムだろうか。
やはり松田聖子は、椎名林檎のようにロックの人ではないので、ところどころリズムの甘さが見られる。
しかし、そういう音楽を歌っているわけではないのだし、全体の完璧さから見れば相対的に甘いという程度でしかない。
『パイナップル』には、ヒットシングル「渚のバルコニー」や「赤いスイートピー」も収録されていて、それらももちろんいいのだけれど、シンガーとしての魅力を堪能するには、M③「ひまわりの丘」をまず推します。
M①「PRESENT」と共に来生たかおの作曲なんだけれども、この人は松田聖子の歌の魅力を実によく理解した曲作りをしているように思う。
松田聖子で1曲だけ選べと言われたら、「風立ちぬ」等、大瀧詠一の手による一連の作品も捨てがたいけれども、個人的にはこの「ひまわりの丘」をまず思い浮かべるかもしれない。
それくらい歌がいいです。
長くなってきたのでそろそろ結論。
松田聖子は天才歌手である。
それは、80年代のアイドルとして、中2女子の恋愛観、少女マンガの恋愛観のような世界のキャラクターとして自分を表現することにおいて、天才的なシンガーであるという意味だ。
自分が演ずるべき役割を100%理解していて、しかもそれを完璧な技術で完璧に演じきることができる。
ただ歌えるだけではない、そうした頭の良さと鋭敏な感覚、瞬間瞬間にツボを突き、細部表現に次々と反応していく反射神経、そしてそれらを躊躇なくやってのける図太さ。その全てを持ち合わせている点において、天才だと思う。
まだまだ椎名林檎編につづきます。
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