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2007年4月 5日 (木)

教育改革

傾いてきた会社を立て直すにはどうすべきか?という問いに対して、吉本隆明は、「まず従業員の給料を上げます」というようなことを言っていた。気がする。
そして、仕事選びで大切なのは、まずその職場の環境であって、それは例えば日当たりがいいとか雰囲気が明るいとか机が広々としていてきれいであるとか、そういうことをとにかく重視すべきだ、とも言っていた。気がする。
働く環境や人間関係がよければ、仕事内容が多少きつかったり退屈だったりしても、続けられるものだ、と。言ってた、たぶん。

そうやって考えてみると、安倍内閣がやろうとしている教育改革は、正にそれとは真逆の方向に進んでいると言える。

問題を起こす教師が多い、教員の質を高める必要がある、というのは、まあ百歩譲って認めるとしてみる。
いや、ほんとはそう簡単に認めていいのかどうか、疑問です、もちろん。
全国に教員が何十万人いるのか知らないけれども、例えばそのうちの1人が「いじめに加担していた」というので、教員全体が著しく倫理感に欠けたけしからん奴らだとでもいうようなムードがあっという間に醸成されて、まずは教師をしっかり管理・監督しろといった方向に世論も誘導されていく。
そもそも、その「いじめに加担していた」というのも、現場の空気はもっと微妙だったかもしれないわけで、もしかするとそんな一言で言い切ってしまえるような単純な状況ではなかったのではないかという推測の余地はいくらでもある。
いじめというのは、通常、子ども同士であっても、被害者と加害者の境界が微妙であるケースが多々あるからだ。
でもまあいいですよ、はい。百歩譲って認めてみましょう。不的確教員、多いのも事実でしょう、ええ。ぼくもたくさん実例を知ってます。教員の質を高める必要はあります。
少なくとも低くする必要はないですから、高めましょう。

さて、教員の質を高めるにはどうすべきか。
もっとも確実で手っ取り早くて効果的なのは、おそらく、
①教員の給料を上げる。
②個々の教員の自由裁量をぐぐっと広げる。
この2点に尽きる。

安倍内閣は、まさにこの真逆をやろうとしている。
そうでなくとも、この10年ほどで、教員をめぐる環境は、おそろしく息苦しくなった。
今回の教育改革は、それにダメを押そうとしている。
教員免許を10年ごとに更新?
これだけ教員の時間的余裕がない中で、毎年、単純計算で教員の10人に1人が、「研修」のために、職場を離れることになるのだろう。
どんな「研修」をやってくれるのか知らないが、それが、ただでさえ人手の足りない現場にいかに負荷を与えるかは、想像に難くない。

いや、そもそも、こんなに教員免許を乱発行(そんな言葉あるのか知らないけど)してるのは一体誰だというのか。
大学でちょこちょこっと必要な単位を取ってたった2週間の実習さえこなせば、卒業と同時に免許がもらえる。
どう考えても、そっちを見直すのが順序として先だろうし、経費的にも軽いんじゃないだろうか。

そう言えば、教員免許を持っている文科省の若手職員を教員として公立学校に派遣して研修させる、なんちゅうプランも浮上しているらしい。
確かに、官僚に現場を直接体験してもらうのは実にいいことだ。
でも、そうやって誰でも彼でも簡単に教壇に立たせることの方が問題多いんじゃないの?
その前に、頼むから教育再生会議のメンバーに、1人でいいから現場の人間を入れてくれ。

今年の大学入試では、教員養成系の志願者が目に見えて減少している。
当たり前だ。
ただでさえ、「今どきの子どもたち」を相手にするのがたいへんにややこしい仕事であることは、誰もが気付いている。
その上に終身雇用も保証されず、待遇も悪くなる一方となれば、誰もなりたがらないわ、そりゃ。

免許更新制を実際にやってるのはアメリカだけだそうだけれども、それは、先進国の中でもアメリカの学校教師はとりわけ質が低いからだ。
生徒が解ける問題を解けないような教員がざらにいるような状況だからこそ、更新制が必要とされている。
同じ方法を日本に導入して、いったいどんな効果を狙っているのか。仮に真意が、「不適格教員の排除」以外の別のところにあるとしても、まるで理解できない。

そんなことより、教員の給料を、今の1.5倍にしてみてはどうでしょう。
すぐに優秀な人材が集まりますよ、それはもう。
いや、実際、70年代に田中角栄が教員の給料を上げたわけだけれども、その時期に採用された人々は、実感としても、優秀な人、多い気がします。ほんとに。

教員を締めつけても、その質が上がることは決してない。
そこは自信ある。
変な自信だけど。
別に教員に限らないでしょ、そんなこと。
当たり前だ。
締めつけて質が上がるなら、いかなる組織も恐怖政治をしくのがいちばんなはずだ。

例が適切でないかもしれないけれども、例えばグレた高校生を更生させるには、どんな方法がよいか?
校則をめちゃくちゃに厳しくし、自由を奪い、徹底的に管理する。
それでグレた高校生が真面目になるとお思いか。
仮になったとしても、それは、不本意なままで外面的な体裁を整えるだけだ。
恐怖政治は、「真面目なフリ」を横行させるだけで、ひとりひとりに、心の底から、「やっぱ真面目にやんなきゃな」と思わせるようなことはない。

教員も同じだ。
いや、大人は高校生よりも世知に長けている分、もっと狡猾だろう。
管理体制の強化は、悪を潜行させるだけで、決して淘汰しない。

ワルガキばかりで荒れまくった高校を更生するには、その高校を、誰もが入学したいと思うような魅力的な場に変えて、競争率を上げるのがいちばん手っ取り早い方法だ。

脅すわけではないですけども、教員ひとりひとりの気分というのは、ダイレクトに学校現場のムードに影響を与える。
生徒になったつもりで想像してみて下さい。
「けっ、こんな待遇で仕事なんかやってられっか」って顔していつも不機嫌な感じの教師と、「この仕事、最高っ。たのしー」ってノリの教師。どっちに教室に来てほしいでしょうか。
どっちも嫌な感じしますけど(笑)、少なくとも前者よりは後者のがましなはず。
多忙なのも問題だ。
もしも教師の仕事が授業だけなら、それだけで授業の質は飛躍的に向上するはずだ。

公立学校の教育の質が恐るべきスピードで低下しているのに対し、私立学校が経営努力によって実績をあげている……。一般はそのようなイメージで語られることが多いように思う。
だから公立学校は努力が足りないのだ、教員は何をやっているのだ、と。
しかし、それは違う。

私立学校は、この20年、特に何もしなかった。
だからこそ生き残れたのだ。
「ゆとり」だの「個の尊重」だのと、めまぐるしく学習指導要領やカリキュラムをいぢくりまわし、動き続けたのは、公立学校の方だ。
その結果、日本の子どもの学力は、激しく低下した。
それを指導したのは、もちろん文部科学省である。
教育委員会や学校現場を問題視する前に、まずやらなければならないのは、文部科学省にこの数十年の失政を認めさせることだ。
私立が伸びたのではない。
公立が勝手に沈んだだけだ。

公立学校は努力や工夫が足りない、という。
そういう面もあることはあるだろう。
しかし、個人的な実感で一般論を言えば、公立学校も、できる範囲内での努力は試みてきたと思う。
それがまるで努力してるように見えないのは、努力したくてもさせてもらえないからに他ならない。

学校現場で、ここをああすれば、こうすれば、といったようなアイデアなど、腐るほどある。
しかし、そのほとんどは、「認められない」。
カリキュラムも教科書も、文部科学省の定めた学習指導要領によってがんじがらめに制限されている以上、努力や工夫の余地は、そもそもごくごくマイナーなレベルでしか与えられていない。

よく、「公立学校でもここまでやれるんです」的な、ごく一部の成功例の報道も目にするけれども、フタをあけてみれば、そういうところには予算がどぼどぼ投入されていたりするらしい。
そりゃ人や金を要求どおりによこしてくれりゃ、努力も工夫もできますって。

過日大問題になった、高校での必履修科目の未履修問題。
あれは、「ズル」、「抜け駆け」という意味では、確かにとても誉められたもんではないけれども、見方を変えれば、「涙ぐましい努力」という一面もあるのではないか。
個々の学校は、独自の経営努力を許してもらえない状況で、「ズル」するしかなかったのではないか。
文科省は、まるで、自分たちが作ったカリキュラムには何も問題はなく、それをきっちり守って正確に運用しない現場と、その現場の「ズル」を看過してきた教育委員会に全ての問題があると言わんばかりだが、果たしてそうか。

公教育の未来は暗い。

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コメント

まったく同感です。

根本の規則を正せば末端の現実も正される、というのは、分かりやすいけど一番ダメな方法論だよなあ。「保守」の名を借りた原理主義者たちはどこでもそのような道を歩んで事態をややこしくしますなあ。

でも、たぶん教育をよくしようとは思ってないような気がする。嫉妬されているんだよな。教員とか公務員とかは。だから、小突き回して溜飲を下げたいというのが真の欲望だと思いますなあ。

がっくり。

投稿: ushiro | 2007年4月 5日 (木) 14時00分

給料上げてそこに「自然競争」がないとダメだよねー。私の給料ももっと上げてほしいわー。そしたら別の仕事がしたい。

投稿: きょうたん | 2007年4月 5日 (木) 16時18分

→ushiro いや、文科省も、基本的には教育をよくしようとしてやってんじゃないかとは思うのよね。で、文科省の中にだって鋭い奴は絶対にいると思うんだけど、役人は仕事が慎重だから、大勢であーでもないこーでもないとやってるうちに、極めて凡庸で冴えない、どうしようもない結論に落ち着いたりするんじゃないかっていう気がする。
でも、今の教育再生会議や教育三法案なんかは、そんなあまっちょろいもんじゃなくて、もっとどす黒い、怪しい動きを確かに感じますな。
→ショーエ 単純に考えて、組織は人が動かすんだから、一人一人が動きやすいようにしなきゃダメだと思う。リストラでコスト削減して、残った社員に残業ばんばんやらせて……なんちゅうのは、ほんとに目先の利益しか見てないわけで、長期的に見れば、全体にとってよくないに決まってると思うんだけど、どう? 結局みんな雇われ社長だから、自分の任期だけ持ちこたえればそれでいいのかね。

投稿: riki | 2007年4月 5日 (木) 23時42分

最近のトレンドは(私が思うにシリコンバレーでは)、人間一人の評価は難しいので、社員の 60% を「よくできている」に評価してインフレなどを考慮した昇給の対象としていてそこそこのボーナスもあり、30% を「非常によくできている」として会社の将来をゆだね大幅な昇給やボーナス、10% は「やばい」として有事に真っ先に切り落とす。つまり9割に対し「よくやっている」と評価。そのかわり、プロジェクトや製品ラインの重要性を常に慎重に検討していて、プロジェクトが重要でなくなったり、製品ラインが自社のほかのものとだぶったりすると、サクっとそのグループがなくなってしまう、ということになっています。企業としての延命を重視し、かつ雇用にまつわる法廷での争いを避けることを重視したスタイルだと思います。教職だとそういうわけにはいきませんが、日本は何事も「モラル」を重視しすぎて、窮屈&偽善的な感じがします。「あるある大辞典」とか西武のプロ勧誘に関するスキャンダルに対する批判も大半のものはそういう感じがする。
ちょっと、いろいろ書きすぎましたので、また自分のブログで語ることにします。

投稿: ショーエ (きょうたん) | 2007年4月 6日 (金) 13時01分

なるほど、その6割・3割・1割っていうのも、不要な部門をスパスパ切っていくっていうのも、実にアメリカ的で、明快・合理的だとは思うけれども、そんな単純なもんかなって気もすんのよ。1割のろくでなし社員や不採算部門を、敢えて「飼っておく」っていうのは、ほんとに不合理なのか、単なる義理と人情の世界だけなのかって言ったら、そうじゃないと思うのよね。
ま、その辺はぼくも書くと長いので(笑)、いずれ別の機会に。

投稿: riki | 2007年4月 7日 (土) 00時54分

うちの会社(アメリカ本社)もショーエの感覚に近いですね。
でも不要な部門、ろくでなし社員を、すぱすぱっとは切らないかな。
ちょっと優しくて、提携を模索するとか、トレーニングとかそのあたりが間にありますね。
結構狭い業界なので、あんまりひどいことはしないし、場を変えた争いには抗弁しうる状況を常に作っているみたい。
教職だと評価がしにくいかもね。
でも一定のルールの中で給与に差をつけることは重要かな。
それがモチベーションのひとつだと思うな。
教育は長い目でみて、とても重要な分野だと思うからお金が一番の目的の人は?だけどね。
学校は、勉強するきっかけみたいなものを感じられる場、感じたらそれを追いかけられる場であればいいな、なんてふっと思ったけど、どうなんかな?まあ人それぞれだろうけど。

投稿: torrisey | 2007年4月 7日 (土) 12時22分

(38)陽動作戦:基礎戦略

 沈黙の兵器の機密を保護し、大衆コントロールをかちとる最も単純な方法は、一方で大衆には基礎的なシステム原則を知らしめないようにし、他方で大衆を混乱させ、無秩序にさせ、ほんとうは少しも重要でないことに引きつけ続けておくべきだということは、経験にてらして証明されてきた。このことは、次のことによって達成される。すなわち―

〔1〕公共教育では、数学、論理学、システム設計ならびに経済学などは程度の低いプログラムを植えつけ、技術的創造を妨げることによって、かれらの精神を武装解除させ、精神的行動をサボタージュさせる。

〔2〕次のことによって、かれらの感情を解放してやり、かれらの我がまま勝手と、感情的・肉体的な活動の中に放縦さを増してやる。

1.メディア―特にテレビと新聞―を通じて、セックス、暴力と戦争を集中砲火で浴びせ続け、毅然と立ち向う感情を軟化させる(心的・感情的にレイプする)。

2.かれらが欲するものを与えて―過剰に―思考に「カロリーが高いがまずい食品」―かれらが真に必要とするものを奪いとる。

3.歴史や法律を書き変え、大衆を変質者が作り出したもののとりこにさせる。

 このようにしてこそ、かれらの目や心を、その人間にとって必要なことよりも、自分とは無関係なでっちあげたものごとへ逸らさせることができる。

 一般原則は、混乱あれば利益あり、である。さらなる混乱あれば、さらなる利益あり、である。それゆえ、最上のアプローチは問題を作り出し、その解決を示すことである。

投稿: 混沌 | 2007年4月 7日 (土) 23時38分

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