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2007年1月

2007年1月30日 (火)

節約の妙

百鬼園先生曰く
節約の大切な事は必要なものを買はない事であつて、これが根本義です。不必要な物まで買ふなと云う必要はありません。

出典は、昭和13年8月、大戦前夜の「百閒座談」。
内田百閒にはこの手の名言が腐るほどあるけれども、これも至言と言えよう。
敢えて言うなら、何を言っているのか意味がよくわからないところが問題と言えば問題だ。
しかし、恐らく実際には意味などなく、単に面白がって言ってるだけのことだとも思われるので、こちらとしては下衆の勘繰りなどせず、何も考えずに有難くお説拝聴して実践してみるのがよいと思われる。

うちは一馬力の四人家族で、生活にゆとりがないのは今に始まった事ではないけれども、またちょっと大きな買い物がしたくなった。
勤め人であるからして、仕事をがんばってもがんばらなくても、入ってくるお金は良くも悪くもほぼ一定だから、お金を貯めるには、別の方策を講じる必要がある。

堅実な方法としては、節約することだけれども、何をどう節約するかというのが難しいところで、下手な節約は生活を堕落させる。
ビールを発泡酒にしたり、肉を外国産にしたりするのは、最も下手な節約であって、そういう中途半端なのがいちばんいけない。
衣類をユニクロや無印で買うのも同様につまらない節約だけれども、慣れというのは恐ろしいもので、これについてはもう近年そのように躾けられてしまったので、それほど抵抗がなくなってしまった。

百鬼園先生のお説に従って節約を実践しようと思うけれども、「必要なものを買はない事」というのがなかなか難しい。
でも、「不必要な物を買ふ」というのは比較的容易であるので、とりあえずはそちらから取りかかることにした。

例えば新年が明けてからは、こまめに宝くじを買っている。
ロト6も含め、発売されるものは、少しずつだけれども全部買う。
毎週なにがしか抽選があるので、楽しみが増えたようで、早くも気分的に少し豊かになった気がする。

宝くじというのは、テラ銭が50%という、ヤクザどころではない、ほとんどインチキまがいのギャンブルであって、確率論的にはこれほど無駄な金の使い方はない。
年末ジャンボを3千円分買っても、買った瞬間に1500円は国に召し上げられているのだ。

これほど不必要な買い物はそうそうないから、節約計画の滑り出しは上々であろうと自負している。

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舌のやり場に困る

あと出しじゃんけんだけども、「あるある」だとか、「本当は怖い家庭の医学(だっけ? たけしのやつ)」とか、ああいう類の番組は、かねてから実にタチの悪い極悪番組だと思っていた。
今回のような「捏造」は論外だけれども、そうでなくても、人に無用の不安を与えたり、無闇に煽動したりする。
納豆で本当に痩せようが痩せまいが、メディアの詐欺師的な体質を象徴的に体現しているタイプの番組だと思う。
また見たら見たですぐその気にさせられてしまうタチなので、余計に気にくわない。

そういうわけで、あの手のものは基本的に見ないんだけれども、家の者にまで見るなと強要しているわけではない。

少し前、別室で、その「本当は怖い……」だか何だかを見ていた愚妻と息子が、番組終了後にやって来て、舌を見せろと言う。
素直に出して見せたところ、「うわっ、でけっ」とか言って、指をさして笑っている。
なんでも舌というのは、その番組によると、食欲が旺盛だと肥大化するとのことらしい。
その他にも、裏側の血管の色がどうだとか、周縁部に歯の跡がついているとこうだとか、いろいろ言っていたけど忘れた。

そんなことを言うので、改めて鏡に向かって自分の舌を眺めてみると、なるほど、確かにでかい。
そう言われれば、かつてはこんなにでかくなかった気がする。
もともと舌は短い方で、その長さは変わってないと思うんだけれども、とにかく幅がやたらと広い。面積がでかい。
べーっと出してみると、口の端から端まで全部舌でふさがる。
他人の舌をまじまじと眺める機会はないので相対的な評価はできかねるけれども、それでもこういう舌はあまりないのではないかという気がしてくる。
実際、愚妻と息子は、「どんだけ食いしん坊じゃい」というような次第でこの舌を笑ったのだ。

他にも思い当たるフシがある。

とにかく舌の横幅がやたらと広いので、口の中で収まりがつかない。
気がつくと横の端を左右の奥歯で甘噛みしていることがよくあり、それ故、舌の横側には歯の跡がついていることも多い。
特に寝ているときに顕著で、夜中ずーっと甘噛みしっぱなしなのか、朝起きると、舌の周縁にくっきり歯型がついていることもある。

そのことに気づいたのはもうしばらく前で、家族に舌の大きさを指摘されるよりずっと前のことだ。
そのときは、自分の舌が他人から見て大きいというようなことは夢にも思っていなかったので、純粋に、みんな寝るとき舌はどこに置いているのだろうかと疑問に感じていた。
しかし、他人に、「寝るとき、舌、どうしてる?」などと聞くわけにもいかない。

これは、意識し始めると実に難しい問題で、特に寝ようとしているときに意識してしまうと、舌のポジショニングに気を取られて眠れなくなる。
舌という器官はかなり収縮するようにできているので、歯をかみ合わせて口を閉じた状態でも、収めようと思えばもちろん収まる。
しかし、収縮させた状態というのは一定の緊張状態であって、眠るには相応しくない。
眠気が近づくにつれ、舌は次第に弛緩状態へと移行し、それと同時に面積を拡大し始める。
いつの間にか、横側方向(通常は左右のどちらか一方)へはみ出し、奥歯での甘噛み状態になっている。
そのことを意識し始めると、舌をどこへ持っていっていいのやら、気になって眠れなくなってくる。

そのようなことが一時あったのを思い出した。

いつの間にか忘れていたのだけれども、家族に舌がでかいと言われて、また思い出した。
食欲を抑えれば、舌もまた小さくなっていくんだろうか。

いずれにせよ、やっぱり迷惑な番組だと思う。

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2007年1月26日 (金)

知識人の顔

人は見た目でだいたいわかります。
いや、実際には、わかった気になってるだけだろうけども。

知識人なんかでも、見た目の印象というのは割と大事で、いいこと言うなあと思えるような人は、たいてい顔も好きだ。
気に入らないこと言う奴は、だいたい顔も気に入らない。

例えば、宮台真司とかが言うことには、概ね感心しつつも、なんかいつも心の底から納得するわけにはいかないような違和感が残る。
その違和感は、宮台真司の顔つきに対する違和感とも絶妙にリンクしているような気がする。

個人的に顔つきが好きな知識人は、例えば藤原帰一とか。
Photo_1 この、ちょっと余裕ありげでクールな男前っぷりがなんとなくいいと思う。
ものの言い方も、割と対象に距離をとって、ラジカルになっても冷静さを失わない。
理想としてはこういう大人になりたかった気がするんだけれども、真逆の方向へ向かってるな、なんか。
育ちが違うのかね、やっぱり。

今いちばん気に入っている内田樹も、なかなかいいと思う。
Photo_2 こちらはもっと顔つきにエモーショナルなものを感じる。
いかにも酒好きそうで、まったく普通のおっさんのようでもあり、また同時に武道家らしい芯の一本通った頑固さも感じさせる。
実際の内田樹の思想は、フェミニンな繊細さと知的洞察力が特徴だと思うのだけれども、一見そういうところを匂わせないのがまたいいと思う。
そうやって改めてみると、なかなか深みのある顔に見えてくる。

ベストはやっぱり吉本隆明だ。
Photo_3 近年のこのすっとぼけたような顔つきは、ほんとにいいと思う。
現代思想の巨人とも言われる人が、最終的にこういう何考えてんだかわからんような顔つきに辿り着いたというところが何とも言えずいい。
若い頃の写真を見るとやっぱりもっとずっとギラついてるわけで、常人の何倍も何十倍も考え続けた挙げ句にこの境地に至ったというのが感動的ですらある。
単に目が悪くなったせいでぼんやりして見えるだけかもしれんが、少なくとも、威厳というものがまるで感じられない。
作家なんかでも、年をとると、ちょっと近づきがたいようなオーラを出すタイプが多いけれども、ああいうのはいただけない。
自分ももうすっかりおっさんになってきたけれども、高校生の頃からずっと、いまだに「偉そうなおっさん」が嫌いだ。
偉くなっても偉くならなくても、こういうふうに飄々と年を取りたいと思う。

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2007年1月21日 (日)

『o / damien rice』を聴く

チンさんちで聴かせてもらって、非常によさそうだったのですぐ購入。
スガシカオが「無人島レコード」で選んでいたアルバムとのこと。

なるほど、このちょっと乾いたリリシズムは、確かにスガシカオとの共通点、か。
いずれにせよ、やはりたいへんよい作品でした。
これは確実に我が家のヘビーローテーション入り。

音楽性の高いミュージシャンというのは、得てして音楽の持つ文学性(変な表現だな)には無自覚で、歌詞なんかにも無頓着な人が多い。
逆に文学的なミュージシャンは、音楽がおもしろくないパターンが多い。

スガシカオは例外的にどっちもイケる人だ。
最初は、詞なんかどうでもよくて、適当に書いてるタイプだと思っていたのだけれども、ラジオのインタビューか何かで詞の世界について質問されてえらく熱く語っているのを聞いて、意外な感じがした。
個人的には、スガシカオの詞にはさほど食指が動かなくて、むしろ興味があるのは専ら音楽性の方だからだ。

「無人島レコード」としてこういう作品を選ぶくらいだから、やっぱりスガシカオは根っこの部分ではすごく文学的なモチベーションを持った人なのだろうと思った。

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2007年1月19日 (金)

蕎麦の味

しばらく前、職場の近くに信州そばの店ができた。
日常、弁当を作ってもらえる日(娘の幼稚園がお弁当の日だけはついでに作ってもらえる)以外は、昼ご飯は外食しているのだけれども、この蕎麦屋が出来てからは、毎日蕎麦を喰うようになった。

うどん文化圏に生まれ育ったので、大学に入って上京するまでは、美味い蕎麦を喰う機会がほとんどなかったのだけれども、もとよりの蕎麦好きだ。
東京は、どこにでもやたらと蕎麦屋があり、しかもどこに入っても美味いと思った。
蕎麦湯や蕎麦がきも東京へ行くまで知らなかった。

近くに出来た信州蕎麦の店は、自家製の手打ち蕎麦ではなくて、信州から蕎麦を仕入れているだけの、まるで本格的ではない店だけれども、値段も安いし敷居も低いので、かえって常用には好都合だ。

晩年の内田百閒がやはり昼食は蕎麦と決めていて、毎日おなじ店からざるを1枚持ってこさせていたというような記述が著作にいくつもある。
なんとなくそれを真似しているようなところもある。
百閒は、その蕎麦の昼食以降、夕食までは、水1滴たりとも何も口にしない。
全ては晩酌を美味しくいただくためだ。
その気持ちが実によくわかる、ということは以前にも書いた。

最初は蕎麦だけでは夕食まで腹持ちしないだろうと思ったけれども、意外とそうでもない。
ちょうど夕食時にはいい按配に腹が減る。

とは言え、やはりざる1枚では少ない。
ぼくは毎日「大せいろ」を注文する。
ざる2枚分がせいろにのせられて出てくる。
蕎麦湯も必ずもらって、もらった分は全部飲む。
それでちょうどいい。

蕎麦が好きと言っても、思えばこれまではただ闇雲に好きだっただけで、蕎麦の味というものがそれほどわかっていたわけではない。
厳密に言うと、蕎麦の味がわかっていないということもよくわかっていなかった。
それが、毎日蕎麦を喰っているうちに、微妙な蕎麦の味わいというものがわかるようになってきた。

ものの味がわかるようになるためのいちばんよい方法は、とにかく毎日それを食べることだろうと思う。
ワインの味が、(もちろん自分なりにそれなりの好みはあるけども)、なんとなく好きとか嫌いとかいう以上のレベルで判別できないのは、それほど頻繁にワインを飲まないからだろう。
逆にビールについては、香りがどうのキレがどうのコクがどうのと、ある程度きいたふうなことを言えるけれども、それは1年のうち300日以上はビールを飲んでいるからである。

内田百閒も、毎日同じ店の蕎麦を喰っていると、「味が決まってくる」というような言い方をしている。
この「味が決まってくる」というのはなかなかに含蓄のある言葉であって、どのような境地に言及しているものか、自分のような若輩には全てを理解しかねるけれども、なんとなくわかるような気もする。

毎日毎日同じ店の蕎麦を喰っていて、しかもぼくの通っている店は、信州から既成の蕎麦を取り寄せているので、品質もかなり安定しているはずだ。
カウンターの中を覗いていると、茹で時間も機械で制御されているようで、決まった時間が経過すると、ざるが自動的に湯からぽんと飛び出す。
それを冷水でしめてせいろにあげて出すだけだから、基本的に味にバラツキは発生し得ないように思われる。

ところが、毎日喰っていると、その日その日でごく微妙に味が違うことがわかってくる。
特に冷水でしめるのは手作業であるせいか、蕎麦のコシの具合は、日によってかなり違う。
やはりよくしめてある方が美味い。
蕎麦自体の品質にも、多少の変化があるようで、何がいけないのか、ごくまれには、実に不味い日がある。
蕎麦の香りが多少は感じられる日もあるけれども、まるで素っ気ない日もある。
蕎麦つゆの濃度も、日によって少しふらつくようだ。

そうやって、毎日、同じ店の、ほぼ同じ味の蕎麦における微細な味の移ろいを、意識するともなしに意識しながら食していると、たまに他店で蕎麦を喰ったときに、大きなドラマを味わうことになる。
とにかく味がいつもと劇的に違う。
そうなって初めて、自分が毎日喰っている蕎麦と比べて、味はどうだ、香りはどうだ、コシはどうだというようなことが、わかる。
自分の中に馴染みのスタンダードがあるので、それを基に、もはや全ての蕎麦を評価できるような気がする。
このようにして、ぼくは蕎麦の味がわかったような気になった。

さて、それとは別の話で、昨年末、信州の某有名店で蕎麦打ちの修行中であるハンドルネーム「見習い」が、休暇で地元に帰ってきた。
「見習い」とぼくは、親同士もわりと懇意であって、うちの親父が一度信州に旅行したときに現地で彼と会い、今度帰省したときには蕎麦を打ってやるとの約束をしたらしい。
そういうわけで、12月某日、うちの親の家に「見習い」が蕎麦打ちセットを持ってやって来て、うちの家族のために蕎麦を打つという、よくわからないイベントが実現した。

「見習い」とは言え、もはや「ひととおりのことは全部教えた」と師匠からもお墨付きを得た身。
修行前にも一度、独学で覚えた蕎麦打ちを披露してもらったことがあるのだけれども、そのときとはまるで手際が違う。
見ているだけでおもしろい。
さすがに道具は本格的なものを持ち込んでもらうわけにはいかなかったけれども、蕎麦粉や打ち粉は修業先の某有名店のものをお裾分けしてもらった一級品だ。

店で喰ったら3口すすればなくなるような量で1枚800円のざる蕎麦を、次から次へとたらふく喰える至福を味わう。
「見習い」は、「店で喰ったらこんなもんじゃない」と言うけれども、その香りと味の素晴らしさは、自分が平生喰っている蕎麦とは比べるべくもない。
蕎麦とはかくも優雅な香りを発するものであったか。

蕎麦屋が自店のオリジナリティを作るのは、主に蕎麦のブレンドによるらしいけれども、この濃厚な味わいはそれだけではあるまい。
やはり手打ちであるということ、しかも打ちたてであるということが、何とも言えぬ豊潤な蕎麦の風味を出すには重要であると思われる。
何千円分喰ったかわからないけれども、極めて有意義なイベントであったと言うほかあるまい。

しかし、このイベントは、ぼくの日常に決定的なダメージをもたらしもした。
翌日から、いつも喰っている店の蕎麦が味気なく感じられて仕方なくなっただけでなく、以前は好んで喰っていたスーパーやコンビニの蕎麦など、見るのも嫌になってしまった。

かようにして人は贅沢になっていくのだろう。
「見習い」は、なんとまあ迷惑なことをしてくれたことかとつくづく思
う。
これだけ迷惑をかけているのだから、今後は定期的にうちに蕎麦を打ちに来る義務があるはずだろうと思っている。

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2007年1月17日 (水)

マイケル・ブレッカーを悼む

年末年始はずっと酔っぱらっていたりいなかったり、年明けすぐに東京出張があったりなかったり、諸々の他事に熱中していたりいなかったり、ココログのメンテナンスがあったりなかったりして、すっかり1月も半ばを過ぎてしまいまして、ようやく今年最初のエントリーとなりました。
しばらくほっといたら、さすがにすっかりアクセス数も激減しているようですが。

やっぱりココログの画面、まだなじめないな。
はてなに戻るかな。
デザイン変えてみました。

さて、年末のJBに続いて、年始はマイケル・ブレッカーの訃報。
このジャンルを聴くようになったのは大人になってからなので、正直JBほど強い思い入れはないですけど。

ブレッカー・ブラザーズ、「Heavy Metal Be Bop」は持ってたな。
テリー・ボジオなんだよな、これ。
そっちにばっかり耳がいきます。

マイケル・ブレッカーの代表作、って言うと、一体何になるのかよくわかりませんけれども、個人的に印象深いのは、ジャコ・パストリアスとの共演、かな、やっぱ。
今確認しましたら、「Word of Mouth」のオーケストラにも参加しているけれども、それよりもやっぱ「Birthday Concert」での演奏。
もうぶりぶりに吹きまくってて、これには感銘を受けましたです。

今日から、右欄に「CDのリスト」も作成しました。
言及したCDは、基本的にそっちに掲載していきます。

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