« 『初期のいましろたかし』を読む | トップページ | マイケル・ブレッカーを悼む »

2006年12月28日 (木)

幸福の技術

内田樹が今年の元旦のブログでたいへんいいことを書いていて、いたく感動したので、それについて書こう書こうと思っていたのだけれども、ちょっとややこしい話で、文章にするには手間がかかる気がする。
そうやって億劫に思っているうちに、ほとんど1年経ってしまった。
早くしないと次の元旦が来てしまうので、頑張って書いてみます。

内田樹はこのエントリーで、「未来の他者性」ということについて、おおよそ以下のようなことを書いている。

未来」というのは、定義上、「何が起こるかわからない」ものである。
そのことは理屈ではわかっていても、人は、すでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか「未来」を考想することができない。
「現在」に腰を据えていると、「できることなら、我が身には可能な限り『わけのわかったこと』だけが選択的に起こってほしいものだ」という無意識の欲望の浸潤は防ぐことができない。
しかし、「未来」とは、決して「現在の延長」ではない。
かようなことをレヴィナスの言葉で語ると、「未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。」ということになる。

つまり、我々は、無意識的に現在の延長としての未来ばかりを想定しがちだけれども、本来、未来というのは、まさか起こるとは思わなかったような『あんなこと』や『こんなこと』による不意打ちの連続なんだ、未来は全く見ず知らずの「他者」なんだ、と。
それが「未来の他者性」。

内田樹は、この「未来の他者性」を現在に繰り込むための方策として、「カウントダウン」方式を採用している、と言う。
これは簡単なことで、要するに、「他者のふりをして、現在の私を見つめる」ために、5年後とか10年後とかの「想像的に先取りされた未来の自分」の視座を設定し、そこから現在の自分を見つめる、という方法である。
つまり、内田樹は、例えば5年後に60歳を迎えてリタイヤする自分を仮想的に設定し、そこから「想像的に回顧された過去」として「現在」を見ている、と言っている。
60歳になった自分の仮の視点で、「思い起こせば、2006年のお正月のブログ日記に、そういえばあんな気楽なことを書きつけていていたな……ははは」とかいった具合に、想像的な語法で「今」を思い出す、と。
とは言え、これは自分自身が演じる想像的な未来の自分という仮想の「他者」なのであるから、当然、真正の「他者」ではない。

要約が面倒になってきたので、以下、一部を直接引用。

いわば「ひとり二人羽織」のようなものである。
あるいは「自分の『ものまね』芸のものまねをするものまね芸人」のようなものである。
不思議な芸であるが、その芸を見ているのは当の自分なのであるから、それでよいのである。
そのような芸がどのような効果をもたらすか、想像すればわかる。
「オレって、いったい誰なんだ・・・」という深甚なるアイデンティティ・クライシスに襲われる、ということである。
そのときに、さらに内省的な精神は「『オレって、いったい誰なんだ・・・』という問いを発しているこの『オレ』って、いったい誰なんだ・・・」という問いに取り憑かれる(以下同文)。
『ちびくろサンボ』の虎たちのように、自分のしっぽを追いかけ始めた虎たちは、やがて「バター」になってしまう。
「虎がバターになる」というのが、この「『オレ』って誰?」という終わりなき問いの手柄である。
この種の内省は、ある閾値を超えると、「虎」が「バター」になるように、質的転換を果たす。
「ま、そんなこと考えても埒があかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」
という日常的なリアリティへの帰還の必然的であることを導出するために、ここまで手間ひまをかけて哲学的内省はなされてきたのである。

回りくどい話だけれども、結論は明快で幸せだ。

「ははは、2006年の正月にはずいぶん気楽なことを考えていたものじゃ」という「想像的に先取りされた60歳のウチダ」の視座は「未来の他者性」をなんとか現在に繰り込むための「方便」であるが、それがもたらす現実的効果はたいへんリアルなものである。
それは、「ああ、お正月って、いいなあ。外は静かだし、暖かいし、朝酒のんでも、誰からも文句言われないし。さて、年賀状でも取りに行くか・・・」というこの「判で押したような正月風景」の「かけがえのなさ」が痛切に、涙がでるほどありがたく身に沁みるということなのである。

予測不能の他者としての未来を、想像的な未来の自分という形で自身の中に取り込むことによって、「現在」の自分を照射する。
それが最終的には、「考えてもしょうがねえな」「今こうやってられるのはありがたいな」という結論へと導かれる。
この幸せな理路に、いたく感動した。

実は、この「カウントダウン」方式というのは、常々自分でも実践してきたことである。
特に子供が生まれてからはよく「想像的な未来の自分の視点で現在の自分を見つめる」ということをやる。
自分でもよくやってることだからこそ、感動したのかもしれない。

うちの子供は、上が7歳、下が4歳で、旬は過ぎたかもしれないけれども、まだまだかわいい盛りだと思っている。
でも、これまでの子育ての7年間が、まさにあっという間に過ぎたのと同様、これからもきっとあっという間に時間が過ぎて、こんな時期がすぐに終わってしまうことも知っている。
うちの子たちも、ぼんやりしてるとすぐに中学生、高校生になって、そのうち親を疎ましく思うようになり、露骨に反抗してみせたり、ろくに口もきかなくなったりするだろうことを知っている。
父親と母親の遺伝子を50%引き継いでいる以上、そうなる蓋然性はかなり高い。
周囲の人々の話を聞くにつけ、そもそも「中学生の親」というのは、実にしんどい仕事らしい。

ぼくが日常よく設定する「想像的な未来の自分」は、「中学生、高校生の親になった自分」である。
息子は成績が振るわず、進学は大変心配な状況かもしれない(既にそのような予兆が感じられる)。
娘は携帯にかじりついていて、親の話になど一切耳をかさないかもしれない。
私の服をお父さんのパンツといっしょに洗うな、とか言うに違いない。
いじめたり、いじめられたりしているかもしれないし、家にひきこもっていたりするかもしれない。
家庭内暴力が発生していないとも限らない。
うーむ、これは困った。

困ったことばかりの「未来の自分」の目から見れば、現在の自分は、なんとまあお気楽なことか。

確かに、折角の休日、やりたいことはいくらでもあるのに、朝起きるなり息子にまとわりつかれ、なんとか振り切ったと思ったら今度は娘に食らいつかれ、新聞すら頭の上に子らが乗っかった状態でしか読めないことにストレスを感じることも、そりゃあ頻繁にある。
この7~8年、やりたいことをやりたいようにできたためしがない。
でも、こんなふうに子らがすぐに膝や肩の上に乗っかりに来る状況を、「未来の自分」が、それはそれは羨ましく思っている。
子どもたちとこんなにくっついていられるのは、長い長い子育ての、ほんの限られた時期だけだ、お前は、今その貴重な時間を過ごしている、と羨ましがっている。
それ以上、何を望むことがあるのか、とたしなめている。
そのようにして、「未来の自分」は、「現在」の日常のかけがえのなさを、しみじみと実感させてくれる。
理屈では誰もが分かっていることでも、こんな風に切実な実感を伴って教えてくれるのは、「未来の自分」しかいない。

「未来の自分が困った状況に置かれていることを知っている」という状態は、「現在の状態が今後も続いていくのだろうとなんとなく思っている」という状態よりも、少しだけ幸福である。
それは、「他者としての未来」に不意をつかれることに対して、ほんのわずかでも心の準備が出来ているという点においても、また、「現在」の日常のありがたさを実感できるという意味でも

正確な「未来の自分」像なんて、追求しようとしても、当然、正解はない。
5年後、10年後、うちの子どもはどうなっているのだろう?と思いを巡らせても、結論にはたどり着かない。
まあいいや、とりあえず今は子らがまだこうやって膝に肩に乗っかりに来る。公園へ連れて行けと手を引きに来る。
子らの将来を案じても、結局は埒があかないのだから、「まあいいや、とりあえず……」になる。
そして、自分は今なんと恵まれた時間を過ごしていることかと、つくづくありがたく思う。

それがぼくの幸福の技術である。

|

« 『初期のいましろたかし』を読む | トップページ | マイケル・ブレッカーを悼む »

雑記」カテゴリの記事

コメント

未来の困った自分を想像するためには、世間に起こるあらゆる困ったことを知っていなくちゃできない。過去の困っていた自分も、また、今の自分をしみじみと幸せにするしね。
天気が良い、ご飯がおいしい・・などなど、現実の幸せはそこらにある。

投稿: ふより | 2006年12月28日 (木) 23時45分

毎日暮らしてて「気に入らない」ことに目を向け始めるとキリがないけど、案外「気に入ったこと」に目を向け始めると、これもキリがないことに気づくよね。

投稿: ショーエ | 2006年12月29日 (金) 18時28分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 幸福の技術:

« 『初期のいましろたかし』を読む | トップページ | マイケル・ブレッカーを悼む »