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2006年12月

2006年12月28日 (木)

幸福の技術

内田樹が今年の元旦のブログでたいへんいいことを書いていて、いたく感動したので、それについて書こう書こうと思っていたのだけれども、ちょっとややこしい話で、文章にするには手間がかかる気がする。
そうやって億劫に思っているうちに、ほとんど1年経ってしまった。
早くしないと次の元旦が来てしまうので、頑張って書いてみます。

内田樹はこのエントリーで、「未来の他者性」ということについて、おおよそ以下のようなことを書いている。

未来」というのは、定義上、「何が起こるかわからない」ものである。
そのことは理屈ではわかっていても、人は、すでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか「未来」を考想することができない。
「現在」に腰を据えていると、「できることなら、我が身には可能な限り『わけのわかったこと』だけが選択的に起こってほしいものだ」という無意識の欲望の浸潤は防ぐことができない。
しかし、「未来」とは、決して「現在の延長」ではない。
かようなことをレヴィナスの言葉で語ると、「未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。」ということになる。

つまり、我々は、無意識的に現在の延長としての未来ばかりを想定しがちだけれども、本来、未来というのは、まさか起こるとは思わなかったような『あんなこと』や『こんなこと』による不意打ちの連続なんだ、未来は全く見ず知らずの「他者」なんだ、と。
それが「未来の他者性」。

内田樹は、この「未来の他者性」を現在に繰り込むための方策として、「カウントダウン」方式を採用している、と言う。
これは簡単なことで、要するに、「他者のふりをして、現在の私を見つめる」ために、5年後とか10年後とかの「想像的に先取りされた未来の自分」の視座を設定し、そこから現在の自分を見つめる、という方法である。
つまり、内田樹は、例えば5年後に60歳を迎えてリタイヤする自分を仮想的に設定し、そこから「想像的に回顧された過去」として「現在」を見ている、と言っている。
60歳になった自分の仮の視点で、「思い起こせば、2006年のお正月のブログ日記に、そういえばあんな気楽なことを書きつけていていたな……ははは」とかいった具合に、想像的な語法で「今」を思い出す、と。
とは言え、これは自分自身が演じる想像的な未来の自分という仮想の「他者」なのであるから、当然、真正の「他者」ではない。

要約が面倒になってきたので、以下、一部を直接引用。

いわば「ひとり二人羽織」のようなものである。
あるいは「自分の『ものまね』芸のものまねをするものまね芸人」のようなものである。
不思議な芸であるが、その芸を見ているのは当の自分なのであるから、それでよいのである。
そのような芸がどのような効果をもたらすか、想像すればわかる。
「オレって、いったい誰なんだ・・・」という深甚なるアイデンティティ・クライシスに襲われる、ということである。
そのときに、さらに内省的な精神は「『オレって、いったい誰なんだ・・・』という問いを発しているこの『オレ』って、いったい誰なんだ・・・」という問いに取り憑かれる(以下同文)。
『ちびくろサンボ』の虎たちのように、自分のしっぽを追いかけ始めた虎たちは、やがて「バター」になってしまう。
「虎がバターになる」というのが、この「『オレ』って誰?」という終わりなき問いの手柄である。
この種の内省は、ある閾値を超えると、「虎」が「バター」になるように、質的転換を果たす。
「ま、そんなこと考えても埒があかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」
という日常的なリアリティへの帰還の必然的であることを導出するために、ここまで手間ひまをかけて哲学的内省はなされてきたのである。

回りくどい話だけれども、結論は明快で幸せだ。

「ははは、2006年の正月にはずいぶん気楽なことを考えていたものじゃ」という「想像的に先取りされた60歳のウチダ」の視座は「未来の他者性」をなんとか現在に繰り込むための「方便」であるが、それがもたらす現実的効果はたいへんリアルなものである。
それは、「ああ、お正月って、いいなあ。外は静かだし、暖かいし、朝酒のんでも、誰からも文句言われないし。さて、年賀状でも取りに行くか・・・」というこの「判で押したような正月風景」の「かけがえのなさ」が痛切に、涙がでるほどありがたく身に沁みるということなのである。

予測不能の他者としての未来を、想像的な未来の自分という形で自身の中に取り込むことによって、「現在」の自分を照射する。
それが最終的には、「考えてもしょうがねえな」「今こうやってられるのはありがたいな」という結論へと導かれる。
この幸せな理路に、いたく感動した。

実は、この「カウントダウン」方式というのは、常々自分でも実践してきたことである。
特に子供が生まれてからはよく「想像的な未来の自分の視点で現在の自分を見つめる」ということをやる。
自分でもよくやってることだからこそ、感動したのかもしれない。

うちの子供は、上が7歳、下が4歳で、旬は過ぎたかもしれないけれども、まだまだかわいい盛りだと思っている。
でも、これまでの子育ての7年間が、まさにあっという間に過ぎたのと同様、これからもきっとあっという間に時間が過ぎて、こんな時期がすぐに終わってしまうことも知っている。
うちの子たちも、ぼんやりしてるとすぐに中学生、高校生になって、そのうち親を疎ましく思うようになり、露骨に反抗してみせたり、ろくに口もきかなくなったりするだろうことを知っている。
父親と母親の遺伝子を50%引き継いでいる以上、そうなる蓋然性はかなり高い。
周囲の人々の話を聞くにつけ、そもそも「中学生の親」というのは、実にしんどい仕事らしい。

ぼくが日常よく設定する「想像的な未来の自分」は、「中学生、高校生の親になった自分」である。
息子は成績が振るわず、進学は大変心配な状況かもしれない(既にそのような予兆が感じられる)。
娘は携帯にかじりついていて、親の話になど一切耳をかさないかもしれない。
私の服をお父さんのパンツといっしょに洗うな、とか言うに違いない。
いじめたり、いじめられたりしているかもしれないし、家にひきこもっていたりするかもしれない。
家庭内暴力が発生していないとも限らない。
うーむ、これは困った。

困ったことばかりの「未来の自分」の目から見れば、現在の自分は、なんとまあお気楽なことか。

確かに、折角の休日、やりたいことはいくらでもあるのに、朝起きるなり息子にまとわりつかれ、なんとか振り切ったと思ったら今度は娘に食らいつかれ、新聞すら頭の上に子らが乗っかった状態でしか読めないことにストレスを感じることも、そりゃあ頻繁にある。
この7~8年、やりたいことをやりたいようにできたためしがない。
でも、こんなふうに子らがすぐに膝や肩の上に乗っかりに来る状況を、「未来の自分」が、それはそれは羨ましく思っている。
子どもたちとこんなにくっついていられるのは、長い長い子育ての、ほんの限られた時期だけだ、お前は、今その貴重な時間を過ごしている、と羨ましがっている。
それ以上、何を望むことがあるのか、とたしなめている。
そのようにして、「未来の自分」は、「現在」の日常のかけがえのなさを、しみじみと実感させてくれる。
理屈では誰もが分かっていることでも、こんな風に切実な実感を伴って教えてくれるのは、「未来の自分」しかいない。

「未来の自分が困った状況に置かれていることを知っている」という状態は、「現在の状態が今後も続いていくのだろうとなんとなく思っている」という状態よりも、少しだけ幸福である。
それは、「他者としての未来」に不意をつかれることに対して、ほんのわずかでも心の準備が出来ているという点においても、また、「現在」の日常のありがたさを実感できるという意味でも

正確な「未来の自分」像なんて、追求しようとしても、当然、正解はない。
5年後、10年後、うちの子どもはどうなっているのだろう?と思いを巡らせても、結論にはたどり着かない。
まあいいや、とりあえず今は子らがまだこうやって膝に肩に乗っかりに来る。公園へ連れて行けと手を引きに来る。
子らの将来を案じても、結局は埒があかないのだから、「まあいいや、とりあえず……」になる。
そして、自分は今なんと恵まれた時間を過ごしていることかと、つくづくありがたく思う。

それがぼくの幸福の技術である。

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2006年12月26日 (火)

『初期のいましろたかし』を読む

知らなかった。
初期はこんなだったのか。
バブルの絶頂期に、こんな貧乏くさいマンガ描いてたんだな。
バブルのムードが大嫌いだった当時にこのマンガを読んでいたら、大きな心の支えになっていたかもしれない。
初期は絵もこんなにしっかり描いてたのか。

いや実に素晴らしい。
こんなにいいとは思わなかった。
初めて読んだいましろ作品『クール井上』は座右の一冊となったけれども、この本も何度も読み返したくなると思う。
どれもよいけれども、特に「ハーツ&マインズ」の中の1編、「ケイゾウ」は珠玉の名編だ。

男子限定で力一杯お薦めします。
函にもあるとおり、5冊分だと思えば安い。
詳細は右欄「本のリスト」のリンクから。
入手しやすい今のうちにぜひ。

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2006年12月25日 (月)

JBを悼む

夕方、車に乗ってカーラジオをつけたら、いきなり「セックス・マシーン」が流れてきた。
交通情報とかやってるはずのこの時間帯に、なんとまあ素っ頓狂な選曲かと思っていたら、ジェームズ・ブラウンの訃報であった。

不覚であった。
殺しても死ななそうなキャラだから、油断していた。
JBが死ぬ、という事態が、現実に起こりうるものだとは想定していなかった。
一度でいいからナマで観たかった。

Photo 追悼の意味も込めて、今夜は必殺DVD『ファンキー・グッド・タイムズ~伝説のJBライブ1983』を観ることにしよう。

オープニングアクトにBBキング、マイケル・ジャクソンの飛び入りもある。もちろんマントショウもあるし、ホーンにはフレッド・ウェズリーもいる。御年50歳の決定版。

合掌。

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2006年12月24日 (日)

クリスマス、映画館

クリスマスの家族サービスだということで、もう少しで遊園地とかへ行かされそうになるところを、「みんな風邪気味だし」とか何とか理屈をこね、映画を観に行くということでどうにか落ち着いた。
午後から、ワーナーマイカルシネマズへ。

Eragon_poster2 息子と2人で「エラゴン」を観る。
http://movies.foxjapan.com/eragon/
愚妻と娘は「劇場版どうぶつの森」。

映画館で映画を観るということ自体が、何年ぶりだろう。
たぶん子供が生まれてからは何も観ていない。
とすると、7~8年以上観ていないことになる。
ビデオやDVDでも、近年は数えるほどしか観ていない。

愚妻に言われるがまま、何の基礎知識もなしに観たのだけれども、「エラゴン」は、息子が言うには“ハリーポッターのような”ファンタジーもの。
ハリーポッターをよく知らないので何とも言えない。

もともとこのようなジャンルはあまり得意ではないし、設定もストーリーも単純で、主人公の「勇気」にはうんざりするけれども、それより何より「Dragon Rider」というコンセプトがいたく気に入った。
ドラゴンのCG(?)デザインも、趣味に合う。
マーク・ボランが観たら狂喜するだろうな。

やっぱり映画館で観る映画はいいなあ。
大人の映画を観たいなあ。

クリスマスのプレゼント、いろいろあって、ついに息子にテレビゲーム。
ただし、Wiiでもプレステでもなくて、お安い単品もの。
息子念願のドラゴンボール関係。
Images 名付けて「Let's TVプレイ ドラゴンボールZ バトル体感かめはめ波2~オッスおめぇ悟空 天下一武道会」。なんじゃそりゃ。

ちなみに娘はシルバニアファミリー。
もう4歳なんだから、ぽぽちゃんは卒業してほしいとの一念。

小2の息子にとって、サンタクロースの実在の問題については、今、グレーゾーンといったところである様子。
それとなく探りを入れてみたところ、「家庭によっては親がサンタクロースである場合もあり得るが、うちの場合は本当にサンタがやってくる可能性が高い」といったニュアンスの認識であるように思われるが、親に気を遣っているということも考えられる。
でも、一応ベランダ側の窓の鍵は開けたままにして寝ている。

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九九マスター

小2の息子は2学期からかけ算の九九が始まり、ひととおり全ての段を習い終わった。
算数の教科書に、九九の習熟度シートみたいなのが貼ってあって、1の段から9の段までの表になっている。
それぞれの段には、「前から」と「後ろから」と「どこでも」の欄がある。
自分で言えるようになったと判断したら先生のところへ行って暗唱してみせる。
言えたらシートにシールを貼ってもらえる。
1から9の段までそれぞれ3枚ずつ、計27枚全部そろえたら「九九マスター」の称号を得る、という仕組み。

息子の話を聞いていると、どうやらクラス26人のうち、半分以上はもう「マスター」らしい。
しかるにうちの息子はまだシールが10枚近くも足りない。

息子に課す学習上の我が家のハードルは、比較的低い。
今回の九九マスターについても、「ビリにだけはなるな」との指示を出した。
去年まではよくうちに入り浸っていた、大工の息子のNくんという子がいて、まだ6枚しかシールを獲得していないらしく、こいつがいてくれれば安パイなのだけれども、あいにく今年はクラスが分かれた。
このままではいけない。
下手をするとビリになる。

そのような危機感から、家でもちょっと九九教育を開始。
なんとか2学期が終わるまでにマスターにさせたい。
何度言わせても、「7×4=?」「24!」「8×6=?」「42!」と繰り返す息子を叱咤激励しつつ、難関の7の段、8の段を執拗に調教する。
そう、もはや「前から」と「後ろから」は言える。「どこでも」が問題なのだ。

終業式の3日前、タイムリミットが迫り、最後の手段として、アメを与えることにした。
昨日の話の続きになるけれども、息子に与えたドラゴンボールは、全42巻のうち、39巻までしかない。
2学期中にマスターになったら、あと3冊、全部揃えてやる。
そのかわりに、もしなれなかったら、一生揃えてやらない。

その結果……。

あと7つ残っていたシール、1日で全部ゲット。
約束を果たしたから帰りに3冊買ってこいとのメールが、仕事中、携帯に入る。
お前、今まで全然やる気なかったのか……。

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2006年12月22日 (金)

ドラゴンボール

カードゲームもムシキングのブームはすっかり終わって、いつの間にやらドラゴンボールに変わっているらしい。
ヤフオクをのぞいてみても、レアアイテムは数万円単位で売買されている。
うちの息子も、知らないうちに何枚かカードを持っている。

カードゲームがきっかけなのかどうなのか、順序はよくわからないけれども、子ども達の間では、ドラゴンボールそのものがまた流行っているらしい。
ビデオ屋に行くと、昔のテレビアニメがDVD化されて、新作としてずらりと並べてある。
それがまた40巻以上に及ぶ。
1つ借りてやったら、息子は勿論、愚妻までもが釘付けになってしまい、そのままずるずると、今、vol.7まで借りた。
ま、確かにおもしろいんだよな、ドラゴンボール。

息子がうちに連れてくる子達はみんなゲームボーイだのDSだのを持ってやって来るけれども、近頃はみんなドラゴンボールのソフトを入れているらしい。
友だちの家に遊びに行っても、プレステとかでドラゴンボールのゲームをやってるそうだ。

うちはまだテレビゲームもゲームボーイもDSも、何も与えていないので、また息子が、「みんなの話がわからない」「ついていけない」とうるさい。

ゲーム機をそう簡単に買ってやるつもりはないけれども、そう言えば、社会人になってから一気に大人買いした、マンガ単行本のドラゴンボールが、実家にかなり眠っているはずなのを思い出した。
休みの日に立ち寄ったついでに押し入れを探してみると、全42巻のうち、39巻までがそろっている。
調べてみると、42巻で完結したのが95年のようなので、それ以前、39巻まで出てた時点で買いそろえたのかもしれない。
ま、マンガなら、ゲーム機やDVDよりはうんとマシだと思うので、まとめて持って帰ってやることにした。
とりあえずこれでありがたく思え。

果たして小学2年生に読みこなせるのかどうかとも思っていたのだけれども、その日から、息子、どっぷりマンガ漬け。
字の多いところは読み飛ばしているふうでもあるけれども、ものの数日で39冊を読み終え、その後も何度も繰り返して読み続けている。
少し目を離すと、部屋で、廊下で、食卓で、布団の上で、ドラゴンボールを読んでいる。
朝7時に起きて居間へ行くと、もう炬燵に寝転がって読んでいる。
正に寸暇を惜しんで読んでいる。
完全にドラゴンボール・マニアと化し、毎日、「ベジータとフリーザはどっちが強いと思う?」とか、スーパーサイヤ人がどうのとか、わけのわからないことばかり口走るようになってしまった。
急に腕立てや腹筋の真似事のようなことをして体を鍛え始めたり、娘を相手にドラゴンボールごっこをしたりもしている。
うーむ、失敗だったか。

ドラゴンボールは、マンガ連載時から、あまりの人気ぶりに連載をやめされてもらえず、明らかに話を無理矢理に延ばして延ばしてあれだけの大作になっている。
鳥山明としては、サイヤ人とかが出てくる前にもう終わるつもりのマンガだっただろうと思う。
サイヤ人がスーパーサイヤ人になり、更にスーパーサイヤ人2になり……と、もうやけくそのように無理につないでいるわけで、誰が読んでも、「どんだけ強くなるんじゃい」と突っ込まずにはいられないわけだけれども、それでもどこまで行ってもおもしろいのがすごい。
設定の勝利だ。
で、結局最後は力尽きたようにあっけなく終わる。

鳥山明って、最近は何やってるんだろう。
最近のブーム再燃で、またどえらい版権収入だろうな。
マンガは当たるとほんとにでかいよな。

うちの息子は、ときどき「かめはめ波」の練習をしているようだけれども、本気で出せるようになると思っているのだとしたら、やめてもらいたい。

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2006年12月19日 (火)

薬と酒量と睡眠の質

やっと風邪がどうにかおさまってきて、まだ空咳が残っているけれども、何より今週は体がだるくない。
家の者も、息子はやはりまだ空咳と鼻水が残っているけど、だいたいみな治った。

体がだるくないので、油断して酒量が増える。
薬を真面目に飲んでいる間は、やはりアルコールと薬は同時に摂取してはいけないのではないかというようなことを気にするので、酒も控えめになる(でも、ちょっとは飲む)。
薬を飲みきって、何の気兼ねもなしにアルコールを摂取できるようになると、晩ごはんが急に楽しくなった。

そういうわけで油断して、昨夜は少しばかり酒量が普段よりも多くなったせいか、9時頃に子どもを寝かしつけていたら、そのままいっしょに寝てしまった。
いったん起き上がったけれども、自分の部屋に戻ってそのまままたすぐ寝てしまい、次に目が覚めると、深夜1時過ぎになっている。
もう起きて活動する気はない。
このまま朝まで眠り続けたい。

こういうときは、慎重に行動しないといけない。
間違っても歯を磨いたり、顔を洗ったりしてはいけない。
そんなことをしたら、確実にぱっちり目が覚めてしまって、眠れなくなる。

それでも最低限、つけっぱなしの電灯は消さねばならぬし、起ち上がりっぱなしのパソコンも電源をおとさねばならん、着替えねばならん、用足しにも行きたい。
現在の快い眠気の流れを断ち切らぬよう、細心の注意を払いながらも、人として寝る前にしなければならない最低限の行動だけは取らねばならない。
眠気を維持すべく、極力ゆっくりと動作し、覚醒につながるような行動は注意深く避けたつもりだった。

しかし。
あまりに慎重になりすぎた。
自分の眠気を失わぬように行動しようという意識は、逆に頭を冷静かつクリアにさせてしまう。
そもそもそのような客観的な行動は、真に眠い人間のそれではない。

ぼくは本来、このような状況での二度寝が得意だ。
浅い眠りをだらだら眠る、正に「惰眠をむさぼる」のサンプルのようなスタイルが持ち味である。
でも、昨夜はダメだった。
何かを間違えた。

そうこうしているうちに、咳まで出始める。
もうこれはいけない。
潔く諦めた方がいい。
2時頃までねばった挙げ句に諦め、電気をつけて、ベッドに座ったまま読書することにする。

咳が止まらないので、水を飲みに行ったり、のど飴を舐めてみたり。
本も、小難しいのを読めば眠くなるのではないかと思ってみたり、でもやっぱり頭は少しぼんやりしてるので、難しすぎるとそもそも読む気にならなかったり。

4時になって、咳もかなりおさまってきたので、まだ眠くならないけれども、電気を消して横になることにした。
起床時間は7時だ。
経験的に、たとえ眠れなくても、3時間ほど半眠半覚でごろごろしておけば、意外と1日つらくない。
眠った時間よりも、起きるときの起き方のほうが問題であって、深く眠っているところを急に無理に起き上がったりすると、何時間寝ていてもその日1日だるくなる。
あまり寝てなくても、すっきり起きられればOKだ。

最悪なのは、4時に横になり、眠ってるような眠ってないような状態がしばらく続いた後、例えば6時とか6時半とかに本格的に眠りに落ちて、ようやく深い眠りについたところで7時の目覚ましに叩き起こされる、というパターン。

…………そうなりました。
おかげで今日は1日やる気が出ず。
咳もまたやや悪化した。
睡眠の質は体調に直結する。
気のせいか、またノドもイガイガする気がする。

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2006年12月13日 (水)

一家全滅

発熱から3週間と1日。
薬を真面目に飲んでいるからか、やっと咳もほとんどおさまり、あとはノドのイガイガ感くらいにまでなった。
何より体がだるくない。

その代わりに、家の者がバタバタとダウンし始めた。

もともとこの風邪は息子からもらったと思っていたのだけれども、先週末、その息子が再び発熱。
38~39度の熱が4日ほど続いた。
まだときどき咳をしている。

息子がやっと回復したと思ったら、昨日、愚妻と娘が同時に発熱。
特に娘の方は、今日、40度までいった。

病院は連れて行かなくていいだろ、という判断だったんだけれども、さすがにこれはということになって、仕事が終わってからかかりつけの小児科へ。
調べてもらったら、「アデノウィルス」とのこと。
「抗生剤も効かないから、ひたすら耐えてください。熱は1週間くらい続くかもしれません」、だそうです。
うーむ。
「大人に感染するのは珍しい」そうだけれども、愚妻も同じ症状なので、その珍しい例らしい。

とすると、ぼくのこの風邪とはまた別?
おれ、またこの娘の風邪ももらうんだろうか。

て言うか、アデノウィルスって何ですか? →まりさん

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2006年12月10日 (日)

音楽連想ゲーム

聴き直しシリーズの一環として、Prefab Sprout 「From Langley Park to Memphis」をCDで買い直し。

Prefabそもそもプリファブ作品にはハズレというものがないけれども、敢えて言うなら4作目(?)の「ヨルダン:ザ・カムバック」が最高傑作だと思ってた。
が、いや、しかし。久しぶりに聴いたら、やっぱりこの3作目もいいわ……。
完全に「ロマンチックが止まらない」状態の近年の作品に比べ、このアルバムは、ポップだし、ロマンとニヒルの配分も良好で、実にリスナーへの配慮が行き届いている。
素晴らしい作品だ。

さて、そういうわけで、久方ぶりにライナーなどを眺めながら聴いていたら、5曲目「Nightingales」に、スティービー・ワンダーがハーモニカで客演していることを発見。
そうだっけ?と思いつつ、早速注意して5曲目を聴いてみると……。

うーん、ハーモニカ・ソロ、いまいち。
折角なのに勿体ない。
さすがのスティービーも、パディ・マクアルーンが作る曲のこの奇想天外なコード進行に合わせるには苦労したと見える。
こざかしいエフェクト処理も逆効果だ。

スティービー・ワンダーのハープの客演はそれこそ星の数ほどあるだろうけれども、個人的にまず思い出すのは、ユーリズミックスの「There must be an angel(ってタイトルだっけ?)」。
まず曲自体が大変な名曲だけれども、あの曲は、間奏のハーモニカソロのところで、神が降りる。
あれ以上に完璧なハーモニカソロというのを、ぼくは知らない。
いつもあのソロで鳥肌が立つ。

スティービー・ワンダーは、そもそも存在自体が神懸かっているし、鍵盤を弾いても歌を歌っても、何をやっても神懸かりだけれども、いち演奏者としてスティービーのソウルが最もむき出しになるのは、歌でもピアノでもなく、ハーモニカではないかと思っている。
もともとリトル・スティービーの名で天才ハーモニカ少年としてデビューしたわけだから、本人としても、最も操りやすい楽器なのかもしれない。
もはや人間業とは思えないほどの完璧なピッチコントロールとタイム感。眩しいくらいに伸びやかで神々しい音色。
とても同じ人類の演奏とは思えない。

そういうわけで、「There must be an angel」が無性に聴きたくなったのだけれども、あいにくこれは持っていない。
でも、プリファブでの中途半端なハープソロが納得いかないので、口直しをしたい。
スティービー本人のアルバムでハーモニカをぶいぶい吹いてるやつを探すことにする。
選んだのは、アルバム「Songs In The Key of Life」。

Stevie アナログ盤で言うところのC面1曲目、超名曲「Isn't She Lovely」では間奏、後奏でハーモニカを吹きまくっているはずだ。
久しぶりに聴く。
うーん、やっぱり素晴らしい。
こうでなくては。

そうやって聴いていると、ハーモニカソロには満足したのだけれども、また違うところに耳が行く。

ご存じの通り、スティービー・ワンダーは、ほぼ全ての楽器を自分で演奏している。
そして、確かにどの楽器も非常に達者だ。
他人に指示するよりも、自分でやった方が満足な結果が得られるとの判断だろうと思う。

しかし、この曲、改めて聴くと、どうもドラムがもっさりしているのが気に入らない気がする。
勿論、スティービー自身のこの独特のドラムも、ぼくは嫌いではない。
でも、当然ながら、もっと凄腕のドラマーは、当時だっていくらでもいる。
スティービー・ワンダーが呼べば大喜びで叩きに来たはずだ。
そういう超一流どころが叩いていたら、この曲はさらにとんでもないことになっていたのではないか……などということを考える。

いや、しかし。とも思う。
この濃密な音空間は、1人で演っているからこそのものじゃないか、とも思う。

スティービー同様、全ての楽器を自分でこなす人間は、他にもたくさんいる。
コンピュータ技術が恐ろしく発達した昨今では勿論当たり前だけれども、そうではなかった70年代、80年代にも、そういう人々は結構いた。

そういう人たちの作る音に共通して言えるのは、音の濃密さだ。
自分で書いた曲を自分でアレンジして自分で全部演奏する。
そうすると、どうしてもできあがる音は、避けようがなく密室的で濃密なものになる。
その人間の体質も体臭もぎっしり詰まってそこに全部出る。
プリンス然り、岡村靖幸(笑)然り……。
それは、何人かのプレーヤーが集まって作る音楽とは全く別の、根本的なところで何かが異なるサウンドである。

スティービー・ワンダーは、敢えてそれを選択したはずだ。
客観的に、技術的に自分より“上手い”ドラマーがいくらでもいることなど勿論知っている。
それでも敢えて自分で演奏することを選ぶのは、それなりの理由があってのことだろう。

……いつの間にか、そんなことを考えながら聴く。

他の人はどうだったんだろう。

今のように録音技術が発達していなかったこの時代、他にこんなことやってた人と言えば……。

……まず思い浮かんだのが、トッド・ラングレン。
この人の場合は、性格的に問題があるから、単に他人を信用しなかっただけかもしれない(笑)。
勿論、スティービー・ワンダーと比べると、比べるまでもなくプレイヤビリティも低い(笑)。
こやつの1人バンドはいかなるものか。

……そういうわけで、トッド・ラングレンが聴きたくなった。
選んだのは、2枚組全38曲収録のシングル集「Singles」。
トッドを聴くのも久しぶりだなあ……。

Todd ディスク1のアタマ3曲、「We Got to Get You a Woman」「Baby Let's Swing/The Last Thing You Said/Don't Tie My Hands」「Be Nice to Me」ですっかりやられる。
うーん、やっぱり素晴らしい(笑)。

トッド・ラングレンは、そのあまりに偏執的な音作りや奇矯な言動から、奇人のようなイメージが強いけれども、単純に曲がよくて、歌が上手い。
それだけで十分だ。

70年代には、全部一人で演奏するっつったって、同期の技術も何もないわけだから、おそらくはまず一人でドラムを演奏するところから始めている。
そのドラム自体のテンポが既にヨレヨレになっている。
そのヨレたリズムに無理矢理合わせて他のパートを重ねていくんだから、やってることにもともと無理があるんだけれども、なんだかんだで、ちゃんと帳尻が合わせてある。
キメの部分など、かなり無理を感じるけれども、まあこれでいいかって感じでまとめてある。
「I Saw The Light」とか「Couldn't I Just Tell You」とか「Wolfman Jack」とか、相当に無理がある(笑)。

でも、それがダメかと言うと、決してそうではない。
逆に、これをスタジオ・ミュージシャンでかっちり仕上げてたら、却って味わいがなくなってるかもしれないという気がする。
この親密な、愛着を感じずにいられないサウンドは、1人でやっているからこそだと思う。
こうやってシングルをまとめて聴くと、この人はほんとに珠玉の名曲を山のように作っていて、普通にやってたらもっともっと売れただろうにと思うけれども、逆に、普通にやってたらこんなに熱狂的な信者はつかなかっただろう。

……というようなことを考えながら聴く。

さて、他に一人で全部やってると言えば、ロイ・ウッド……。

いやいや、トッド・ラングレンに似たタイプのブルー・アイド・ソウル・シンガーと言えば…………。

……かようにして、私の夜はどんどん更けてゆくのであります。

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2006年12月 8日 (金)

風邪

風邪が治りません。

発熱したのが先々週の月曜だから、もうやがて3週間になる。
東京出張中に熱が出たのだけれども、なるべく医者にはかからない方針なので、しばらくは我慢して、土曜日になってもまだ熱が下がらないので、近所のK医院に行って漢方薬を処方してもらう。
漢方の風邪薬は、まあ気休めの様なものだとは思ってるけれども、まる3日飲んでもまるで変化なし。
その後もまるで治る気配がないので、先週、発病後10日経過した時点で、別のT内科にかかって、今度は西洋の薬を出してもらう。
これを5日間、律儀に飲み続けたが、効果なし。

さすがに熱はほとんどなくなったけれども、だんだん咳がひどくなってきて、夜眠れないほど咳き込むことがある。
ゲロ吐きそうなくらい咳き込む。
ノドもずっとイガイガしてる。
眠れないままに仕事に行くので、余計に調子が悪くなる。

咳がほんとにひどいので、喘息持ちの愚妻が以前、K医院で処方してもらった漢方薬の残りを飲むことにした。
漢方だけれども、愚妻が飲んだときは、咳がぴたりと止まったという即効性のある薬。
「おくすり110番」という便利なサイトがあって、ここで一応調べてみたら、飲んでもよさそうだったので、昨夜から。
そしたら、昨夜はわりとよく効いて、ぐっすり眠れたけれども、起きてみると、やはり完全にはおさまらない。

今日はもともと休みが取ってあったので、1日中家でごろごろして過ごした。
だらだらしてると余計に気がゆるんでよくないのか、次第に調子悪くなってきて、夕方にはまた微熱と咳。

こうも長いとさすがに余病とか心配になってきた。
明日はまた病院に行くべきかどうか、思案中。
うーむ。

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2006年12月 3日 (日)

『リトル・フォレスト』五十嵐大介 を読む

最近「農業」がマイブームなので、農村マンガを読んでみた。
たいへん素晴らしいマンガでした。
農村グルメ・マンガ、とでも言いましょうか。
全2巻。
読み終わるのが勿体なかった。

この人、絵がたやらと上手い。
これはちゃんとファイン・アートの習練を積んだ人と見た。
しっかりしたデッサン力と言い、素人にこういう線は引けません。

ほんとに東北で農業しながらマンガ描いてんのかな。

「なっとうもち」というのが特に美味しそう。
搗きたてのもちを、砂糖醤油のなっとうにぶち込んで食べる。
焼き餅を砂糖醤油につけて、というのは子どもの頃よく作ってもらったけど、なっとうは経験がない。
年末、田舎でもちつきをやるときに、今年は是非試してみようと思う。

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引っ越しました

はてなダイアリーから引っ越しました。

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